2022/07/04

「争い」と「制約」が生じるのはなぜか?

 

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ジャン・ジャック・ルソー「人間不平等起源論」「社会契約論」。これをもって政治思想の探求はひとまず締めくくりとする。

自分がずっと知りたかったことは二つ。

1:どうして争いが起こるのか?
2:どうして生き方に制約が生じるのか?

この数日間の探求によってその答えは判明した。奇しくも連鎖的な解答を表見させて。

人は、自然状態(原始的な生活様式)においては争いを起こさない。生きていくのに必要な資源は辺りにいくらでも広がっており、わざわざ取り合う必要がないから。誰かが木からりんごをもいだところで食物が絶えることはない。耕作を始めたところで大地が埋め尽くされることはない。ゆえに、侵略する必要がない。

仮に、怠惰な者が楽をするために他者を自分に従わせようと目論んだところで、相手を自己に留めるには常に監視下に置かねばならず、そのための労力は己の体を動かす煩わしさを遥かに上回る。相手に二人分の生産活動をさせないことには目的は果たせないわけで、相手が健康を害せばその恩恵に預かることはできない。暴力で服従を強いることや食べ物を独占することは従属者の生産性の低下につながり、それは同時に自身の生存にも危機が及ぶことを意味する。そんな事態に陥るくらいなら、二人で協力し合って生産活動を行なった方が気持ち的にもずっと良い。誰もがそのような考えに行き着くであろうことは容易に想像される。

こうして人と人とが集まって共同生活を営むようになる。ここに社会が形成される。

すると途端に「所有」という概念が形成される。自己と他人との比較から〝不平等の感覚〟が生じるから。

身体的な不平等や能力的な不平等、そして男女関係が始まるために生まれる必然的な不平等。人は人と暮らしている以上、相手と自分を比べなくては済まない生き物であるらしい。こうして嫉妬や妬みの感情が湧き上がり、社会には盗っ人が誕生する。

他者との関係によって変容した共同体では、自己顕示欲の強い者はさらなる力を求めて所有を拡大しようとし、善良なる者たちも身の安全を確保するために所有物の管理を余儀なくされる。たとえ望まざるとも戦わなくては生命の保全が叶わないからだ。

こうして地上には、おのずと「争い」が誕生することと相成る。個人から共同体への変遷を辿ることによる自然な成り行きである。

争いが生じれば裁きが必要になる。裁定者が必要になる。ルールが必要になる。ここに至り、否応なしに『国家』の必要性が生じてしまう。市民より一つ上の権力による秩序の制定が、市民自らの意志によって求められるのだ。

つまりはこういうこと。

1:「所有」が形成されるために『争い』が生まれる
2:『争い』が生じるために国家が必要とされ人々に【制約】が課される

本来あるはずの自由というのは、我々自らの意志によって〝放棄〟されるのだ。

その答えはまさしく連鎖的なものとなって表見した。すべては自然発生的に生じる形で、かつ理性からの求めに応じる形で、自分たちの方から望んでその状態に身を置いたのだった。

人がいるからこそ社会が形成される。物があるからこそ国家が形成される。歴史は、そのことを明確に我々に伝えてくれていた。

その理屈を理解できたことで自身の価値観も随分と広がった気がする。そんなの当たり前だろうと一蹴するのはいかにも容易い。誰だって分かる道理だといえばそうに違いない。だが、創作者として重要なのは真からその本質を理解していること。ただ知っていることと理解していることとは似て非なるもの。それは、得た知見を別の場面でうまく使えるかどうか? という段になって明確な差となり現れる。

そして私は、上記を理解するに至り、以下の想像を働かせずにはいられない。

〝ではその先に待ち受ける社会、つまりは今現在の「個人主義の社会」とは一体、どのような形態となって表れてくるのだろうか──?〟

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