2023/05/10
あの時のきっかけに立ち返る
人生のいくつかの時点には分岐路があって、踏み出す前に、あとでこの決断を思い出し感慨にふけるだろうなと、分岐路を前にして確信することがある。十代の頃のそれはほとんど取り越し苦労であったと恥じることになるけれど、ある程度の年齢からはやはり重要性を帯びてくる。過ぎた時間は取り戻せないからではなく、キャンバスの真新しさを取り戻すことができないから。のせる絵の具の滑りが違う。重ね塗りをすればするほど定着しにくくなるし、混ざった絵の具は本来の色彩を放つことはない。
年を重ねればおのずと新しいものに対する感動は薄れていく。代わりに排他的な意識が働くようになる。嫌悪感や忌避感。それは偏見だと若年層からは軽蔑されるけれど、きっと完成度を堅守しようとしているのだと思う。なんでもかんでも受け入れるのはもう違うだろうと。少なくとも検証してからでないと受け入れることはしない。そんな歳になっていまだにウェルカム体制なのはよほど愚かか、あるいは守るべきものが何も無いのだろう。
素直な感受性はできるだけ失いたくないと思っている。けれどもやはり、先入観のメガネで見てしまう自分がいる。それは生物としての防衛本能。止むを得ないと同時に芽生えた責任感によるものだと肯定する。家族に対しての、そして自分だけに与えられたこの人生というものに対しての。
だからこそあの頃に感じた想いは貴重だと思う。ほんとうの意味でもう取り戻すことはできない。
ただ同じ体験に触れることでそれを思い出すことはできる。そして今では、あの時に感じた想いとの比較をすることもできる。
それがまた、心の琴線に触れる体験であった場合には、けっこうくるものがあったりする。
24歳時の分岐点の先には三つの景色があった。お笑い芸人と小説家と国家試験。
小説家がもっとも夢に近い景色だと思っていた。到底行き着くはずのない道。ネガティブ寄りだった当時は叶わないであろうものを夢に分類していた。
二択で迷った末にもっとも現実味のある国家試験に踏み出した。それは今でも正しかったと思っているし、たとえ結果がともなっていなくともあの体験なしに今の自分はないと思っている。真っ新なキャンバスにのせたのは知識ではなくその習得方法という色だったのだ。
それでも未練があったのか、いや、あれは未練ではなく答え合わせがしたかったのだろうと思う。自分には無理に違いないというその自己分析の正否を確かめたかったのだ。その確認をもって完ぺきに忘れ去るという決断に至るのだ、と。そう、それを未練というのである。
そもそもたいして小説が好きでもない自分がどうして小説家になりたいと思っていたのかがわからない。子供の頃に読んだ本といえば赤川次郎のミステリー小説か松本人志の「遺書」くらいのもので、作家諸氏が語るような読書体験を自分は経ていない。なにが自分を小説家という道に踏み出させようとしているのか、それは今でもそうだけど、ほんとうのところは自分でもよくわからない。
それでも〝きっかけ〟というのはほんとうに不思議なもので、その体験は論理性や合理性とはまったく別のところからやってくる。理由など、ほぼ無いのだ。その証拠に、あのとき手に取った小説はなんのゆかりもない純文学作品だった。古本屋の棚からぱっと取り出した一冊。それが忘れられない体験となるのだからまったくお手上げである。なんだかもう、考える、という行為が馬鹿ばかしくなってきてしまう。
その読書体験は衝撃的なものだった。文字を通じてありありと映像が浮かんでくる。残酷で、苛烈で、しかし美しい。
言葉の羅列でこれほどの体験を人にもたらすことが可能なのかと思った。腰砕けになった。小説がもつ可能性に心を奪われた。壮大な自然の美しさを前におのずと頭が下がる、あの畏怖の念さえ覚えた。
ネガティブな思考を前提に検証すると決まってそうなるように、自分には到底この道は無理だという確認を、最終的には得ることになった。数々の作品を読み進めてみると途中から理解が追いつかなくなったからだ。
かくして小説家の夢は心の奥底へと追いやられることになったわけだけど、自分の信じた成功を手にした途端に訪れた果てしない虚無と向き合い続けているうちに、ある時ポンっと押し出されるように再び、心に浮かんだ。そうして34歳にして幸福に満ちたこの苦難の道を歩むことになった。
いま、あの時の一冊に立ち返る。
笑ってしまった。
「読み取れている」と自分が思っていたものは、ことごとく勘違いであったことがわかったからだ。全然読み取れていない。思い上がりというべきか、何を感じるのかは読者それぞれでいいけれども、技術的な話となると正誤がある。それがほとんど誤っていたのだった。
けれどもあの時の自分が感じたことは、間違ってはいなかった。やはりその読書体験は映像としての読書体験だったのだ。そしてその体験を拠り所にし、間違った解釈のもとに再現を試みた結果、どうにも的外れな表現をしていたのだった。それがわかって思わず笑ってしまった。
この感慨。そう、この感慨が自分を純文学へと誘ったのだ。
きっかけを思い出した。それを思い出せたこと、取り戻せたことに、深い感謝を覚えた。この作品よ、ありがとう。あなたのおかげで私は読書がもつ無限の可能性に再び気づくことができました。
小説には可能性がある。人ひとりの人生に大きな影響を与える可能性、人々の未来を変えてしまう可能性。
だから自分は、作家になりたいと、いや、作家でありたいと思ってしまうのだ。
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