あの頃の自分にはなれなかった
数日が経った。
最後にブログを書いたときはどんな心境だったろうか。もはやうる覚えになるくらい、この数日間でいろいろなことがあった。浮かんでは沈み、光明を見出しては絶望の淵に落とされる、そんな精神をもてあそばれる日々が続いた。もういい加減うんざりするまでに疲弊させられた。
元はといえば訳のわからない啓示のせい。あるときから朝起きては空に一礼し手を合わせた。心の内で言葉を唱えて念を捧げた。他者に影響されて抱いた願望ではなく己の内側から出てくる思いに従うことを誓った。それを繰り返しているうちにいつしか作家にたどりついた。しかし待ち受けた未来は「才能がない」という残酷な結末だった。
三年も費やしてけっきょく出版することもなく終えることになった。形にも残らない。何の見返りもない。ただただ自己的な研磨を積んだだけの三年間。決して誰にも認められることはない。誰にも理解されることはない。対外的には単なる空白以外の何物でもない黒歴史。嘲笑を通り越して黙殺されるに違いない。要するに、あいつは精神的に病んで家に引きこもっていたのだろう、と。私でも他者から聞いたらそう解釈するだろうと思う。
振り返れば、起業家として営んでいた事業をもう閉鎖しようと決めた、あの時からこの悲劇は始まった。お金だけはあって何一つ満たされない、酒に狂った日々から脱しようと、ようやく手にした小さな成功を手放そうと決断した、あの志からすべては始まっている。そこから数えたら都合六年。六年間も訳のわからない活動に時間とお金を費やしてきた。もっとも精力的に動ける三十代というかけがえのない日々を犠牲にして。
何をやってきたんだ。いや、何をやらされたんだ、私は。どうしてこんな目に遭わされなければいけないのだ。
夢を追っていたわけじゃない。自分のやりたいことをやっていたわけじゃない。私はありのままの自分を追いかけただけ。自分らしい自分という人生を追いかけただけ。そういう意味で好きなことをやっていただけ。別にやりたいことではなかった。作家になりたいなんて、小説を書きたいなんて、別に心から望んでいたわけじゃない。どうしてこんな大変な道を自ら望むことがあろうか。幼少からこの世界にのめり込んでいた文学少年でもない自分が。
ずっと、ずっと思っていた。
どうして自分が作家なんだ?
その払拭できない疑念が最後は現実となったかたちだ。ほら、やっぱりそうだろうが。やっぱりうまくいかなかっただろうが。思った通りだよ。
無駄な時間を使わせやがって。無駄な苦労をさせやがって。
後悔は怒りに、怒りは恨みに、そして憎しみへと変わっていった。
中学三年で部屋にこもっていた時はずっと神様を憎んでいた。神様が大嫌いだった。こんな世界を作りやがって。こんな不完全な人間を生み出しやがって。なにが神だよ、クソ嫌味な野郎じゃねえか。どこが全知全能なんだよ。知ってるならさっさと治しやがれよ。できるんだったらそもそも最初から作るなよ。
祈っても祈っても聞き入れてはくれない。助けてはくれない。だったら神って奴はきっともの凄くイヤな奴なんだろう。陰湿で性悪なクソ野郎なんだろ。
俺はもう一生神には祈らねえ。あんな奴には頼らねえ。オレは自分で自分の運命を切り開いてやる──。
そんな自分が数十年後に「心を開いてみよう」と改心する運びとなり、その結果小さな成功を得て、そして転落するように倍の苦汁を舐める日々を過ごすこととなった。私の心はふたたび中学の頃のように神を憎む気持ちへと偏向していった。クソッタレ、神が。お前はけっきょく性悪だったな。やはりもう二度と神には祈らない。宇宙なんて不条理でクソだ。この世界は辛い一辺倒の地獄だ。
無気力のままベッドから出た。投げやりにドアを開けた。リビングには妻がいた。
機械的な挨拶の言葉を口にした。虚ろな目を向けた。そこには妻の笑顔があった。
なぜか、憎しみをもつことができなくなった。抱いた憎しみを保持することができなくなった。空に浮かんでいく風船みたいにふわりとどこかに飛んでいってしまった。掴んでいたいはずなのに手が出せなかった。別にいらなかったのかもしれなかった。
不思議とあの頃みたいに神様を憎むことができなかった。宇宙に敵意を向けることができなかった。
それはたぶん、大人になったからではない。人間的に成長したからではない。
この体験に心のどこかで感謝しているからだと思う。たぶん、そう。
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