いい加減でもいいじゃないか

 

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昨日からまるで抜け殻のような一日を送っています。何をしていたのか? と聞かれても、全然覚えていない。だからきっと何をと言えるようなことを何もしていないのだろうと思います。もはや何を食べたのかも思い出せない。失念したというよりも、その記憶が海馬に蓄えられることを拒絶した感があります。そんなことができるわけはないと思うけど。

しかし昼過ぎにぞろぞろと起き出すと、洗い物は終わっているし、ゴミは捨てられているし、お茶は作ってあるし、洗濯物は干されている。⋯⋯おお、妻の仕業か。主夫の仕事をプロの主婦が特別に代行してやってくれたようです。夫婦はまるで合わせ鏡のようであると言うけれど、夫の精神が不調にある時は妻の精神は好調をきしていて、どうやらそのことを察したうえで動いてくれた様子。すげえな、夫婦って。いや、もちろん妻が、です。

〝ちゃんとしなければいけない〟

実は、我々の安らぎを妨げているのは、仕事のストレスでもなく、身体の疲労でもなく、隣人の騒音でも子供のわんぱくさ加減でもなく、自分の中に芽生えてしまう『責任感』なのではないかと、個人的にはそう思ったりします。たとえ外観的には休日を過ごしていたとしても、心の内にある責任感が休眠状態に入っていなければ、きっと完全な休息、つまりは真の意味での休日を過ごすことはできないのではないだろうか。

そういった意味では、現在の在宅ワークなどの就業体制は、きっと主婦の方から束の間の完全休息の時間を奪っているに違いありません。夫と子供が家にいない時間と空間というのが、彼女たちにとってのそれにあたるはずなので。もちろん現状、それは仕方がないことなのだけれど、休息を奪われたことによる皺寄せはどこかしらに表見せざるを得ない、ということは知っておいた方がいい気がする。そうでないと、いくら夫婦喧嘩をしても全くお互いを理解し合えない、といった悲劇を生むことも考えられるから。

詰まるところ、求められるのは、パートナーの理解であると思う。「完璧じゃなくてもいいじゃないか」「別に適当でもいいじゃん」そんな言葉一つで救われるほど夫婦は単純ではないけれど、しかし、その〝姿勢〟でいてくれることが一体、どれだけ相手を救うことになろうか。

上っ面の言葉ではなく、本当に自分という人間と向き合ってくれて、そして受け入れてくれること。あるいは受け入れることができなくとも、許容してくれること、分かろうとしてくれること。それだけでも、責任感という重い十字架を背中から下ろすには、十分な効果を発揮する。

なぜなら、そのためには「許可」が必要だから。自分の許可ではなく相手の許可。他人の許可でなければ、心の内の責任感が休眠することは決して叶わない。責任感というのは、自分に対してではなく、他人に対して芽生えるものであるから。その呪縛から解き放つことができるのは、自分以外の他人しか、いない。

5年前までの自分は、一切の妥協を許さない厳格な人間でした。自分に対しても、他人に対しても。だから背負った十字架を下ろすことが一切できなかった。けれどもそんな自分は実は作られた自分であることに気づかされて、背負った十字架を道端に放り投げ本来の自分に立ち返ってみたら、なんだよどうしようもない人間であったことを思い知らされて。しかし「ありのままのあなたでいい」という許可が貰えたら、これ以上の安息はないのだと気づかされて⋯⋯。

いやあ、夫婦って、すげえな。結婚というシステム自体は人工的に作り上げた不自然なものだけれど、男性と女性が共に人生を過ごすこと、というよりも、対極の存在を自ずから求めてしまうのはやはり人間の本能で、その道にこそ至高の体験が待っているのだと、今日あらためてそんなことを感じました。

妻曰く、いい加減でも別にいい、らしい。

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