この世界にたゆたう祖母
およそ1年ぶりか、それ以上か。両親が、施設に居る祖母に会いに行ったよう。
祖母は齢90を越えたいまなお、確とした認知をもつ。息子である父の存在はもちろんのこと、母や姉、姉の子供の存在にも忘却はなく、そのひ孫の名前もしかと記憶している。あの高齢にして凄いなあ、と孫としては感じるばかりだ。自分が小さい頃からまっことパワフルばあちゃんだったもの。オレオレ詐欺の電話なぞ「知らん!」の一言で退けてしまう逞しさがあった。祖父が早くに亡くなっていることが大きいのだろうと思う。ただ、聴力の衰えばかりは如何ともし難いみたいだが。
その後、母から一本の動画が送られてきた。五分ほどの動画で、両親の問いかけに答える祖母の姿が終始映されていた。質問はすべて施設の職員がお絵かきボードに記して提示することによって。
──父「調子はどうや?」
祖母「こんなもんや。同んなじや」
「どっか痛いところはないか?」
「痛いのはない。どっかが特別悪いってのはないと思うわ」
「そりゃあいい。何よりなことや」
「いんやあ、言うてもしやねえが。もうどうしようもできんのやから」──
それはたしかに幾ばくかの悲哀を滲ませてはいたものの、なんだか自分には達観しているようにも映った。
流れに身を任せるままに。抗うことなく仰せのままに。この世に、運命に、万歳したままたゆたうかのよう。どこか気高くすらある。ああ、尊い。
あの気の強い祖母のことだから、きっと怒りみたいなものは腹にあるのだろうと思う。黙って受け入れるような性格ではないもの。きっとその現象に繰り返し立ち向かった末に至った境地なのだろう。納得はしかねるが、納得するしか仕様がない。だけど悲観して過ごしたくはない。そんな毎日は楽しくないから。
祖母らしい決着のつけ方だと感じた。立派な生き様だと思う。果たして自分にもああできるだろうか。
もうそろそろ⋯⋯そんな兆しのあった2年前を経て、現在の絶好調である。延長戦。まるで「何か」を待っているかのよう。もちろん長男家である我が家の子供の姿なのではあろうが、あるいは⋯⋯。
〝間に合わせたい〟
その気持ちはおのずと湧いてくるものの、自分を追い込む形ではうまくいかないことを知っている。作品に注ぎ込むべきは苦悩や葛藤ではなく「灯火」であるはず。著者自身がその姿勢で臨まないことには、それは叶わない。楽しむ気持ちが肝要なのだ。
もしかすると祖母は分かっているのかもしれない。分かったうえで、ただその時を待っているのかもしれない。なるほど、だから達観しているように見えたのか⋯⋯。
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