2020/12/23

この街の不動産屋さん 6の続き

 

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〜続き〜

 高杉が風呂から上がる頃には、娘の櫻は既に床についていた。眠い目をこすって自分の帰りを待っていてくれたのだろう。健気な我が子に対する罪悪感がうっすらと湧いてくる。

 掻き毟るように濡れた頭をフェイスタオルで擦り、冷蔵庫の扉に手をかけると、勢い余ってドアポケットにある物が上下にガタンと飛び跳ねた。数日前に飲み干した缶ビールがきっちりと補充されている。

 「・・沙知も飲むか?」

 「うん。何かつまみでも作るわ」

 そう言うと高杉沙知はエプロン姿になった。

 夫と入れ替わるようにキッチンに入り、冷蔵庫の一番下からきゅうりを二本取り出すと、まな板の上でささっと乱切りにした。そしてそれをジッパー付きの保存袋に入れてごま油や塩昆布などを投入し、手で揉み込むようにして袋を上下に振っている。

 高杉がドライヤーで髪を乾かして戻ってきた時には、和柄の小鉢と二つのタンブラーがダイニングテーブルの上に乗っていた。時間的にちょうど良い軽めの酒の肴である。

 「はい、どうぞ」

 高杉が席に着くと同時に、妻の沙知がプルトップ缶に指でてこを入れた。炭酸が抜ける音が静かなリビングに響き渡る。傾けたグラスにとくとくと注がれる黄金色の液体は、この殺風景な空間にささやかな彩りを与えてくれる。

 想像していたのと全然違った、と妻は思ったかもしれない。

 自分も社長夫人だと浮かれてついてきてみれば、とんだ倹約生活に付き合わされる始末。事業が軌道に乘るまでは一円でも多くの資金を残しておきたい。最終的には身銭を切ってでも責任を取らなければいけない経営者というのは、会社に余剰資金ができてからでないと私腹を肥やすことはできない。もちろん世の中には様々なタイプの経営者が存在するが、高杉は根っからの心配性であり、間違いなく保守的タイプの経営者に該当した。ゆえに、先行きが見通せるようになるまでは節制しようと妻には告げていた。

 妻の沙知からすれば、まったく騙されたような気持ちになったかもしれない。

 「いつもありがとう」

 感謝の言葉が自然と高杉の口をついて出た。

 「つまみ一つで大げさやな」

 沙知は微笑みを浮かべて美味そうにグラスを傾けている。

 「いや、そういう意味じゃない」

 「うん?」

 「何一つ文句も言わず、オレについてきてくれてありがとう」

 沙知は無言できゅうりをつついている。

 「苦労をかけて申し訳ない」

 ぽりぽりという音が無音の空間に響く。

 「櫻にも寂しい思いをさせて本当に申し訳ないと思っている」

 沙知は口をもぐもぐさせながらちらりと夫を見た。

 「二人には本当に感謝しかない。ありがとう」

 高杉は座ったまま頭を垂れた。

 すると、ようやく沙知が口を開いて言った。

 「まだちょっと早いなぁ」

 高杉は思わず顔を上げた。

 「やっぱさ、そういう感謝の言葉は、嬉しい報告と一緒に聞きたいやん」

 妻の顔を黙ってじっと見つめる。

 「うちらはいくらでも待てる。こっちのことは気にせんでいいから、あなたは結果を出すことだけに専念して下さい」

 高杉は背筋をぴんと伸ばして深く頷き、妻の言葉を噛みしめるように口の中のきゅうりを味わった。

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