2022/06/03
ただ楽しいばかりの時はつまらない
おりゃあぁぁ、と叫び声を上げたい気分。別にストレスが溜まっているわけではない。度重なる緊張からの緩和を得たいだけ。活字に延々と向き合うのはなかなかに神経を消耗する。
ちょっと今は遊園地にでも行きたい気分。長島スパーランドのスチールドラゴンにでも乗って体を空へと放り投げられたい。右へ左へと荒々しく、雑に。読書が「静」ならば「動」を体が欲しているのかも。そういえば昔から落ち着きのない子供だと通知表に書かれていたっけ。
文明を築く以前は誰もが畑仕事に精を出していたことからも、じっと室内で過ごすのはいささか〝不自然〟な生き方であるのかもしれない。体を動かさないのは言わずもがな不健康だし、陽に当たらないのもなんだか病的な感じ。元気なのに元気じゃない。そうして過ごす人物を想像するだけでもなんだか陰鬱な気持ちになってくる。
今ふと、蒼白い顔をした相手に「なんか知らんけど、暗いなぁ、自分」という一見つっけんどんな、しかし実は親しみのこもったツッコミを入れる関西人の光景が目に浮かんだ。ツッコまれた当人はただただはにかむばかりで俯く。微笑ましい光景。まさしく陰と陽のバランスである。
楽しいけれども苦しい。嬉しいけれども辛い。そんな体験を、求める自分がいる。
ただ楽しいだけの時間はつまらない。最初は面白く感じてはいるが、次第に飽きてくる。いや、冷めてくるといった方が適切かもしれない。そんな時間に満足している自分がバカに思えてくるのだ。クダラナイ体験に貴重な寿命を費やしてんじゃないよと。
それは鑑賞する諸々の作品に対しても同様。体を揺らすだけの歌、面白ければいいという小説、最後まで衝撃一辺倒の映画や動画。笑えるけど、鑑賞しているうちに段々と馬鹿馬鹿しくなってくる。これは一体なんの時間なのだ? たまの気分転換としてはいいけれど、そればかりの日々には苛立ちを覚える。またそのような人生にも。他人がどうとかは関係なく自分自身が、ということ。
面白い小説を書けるようになりたい。しかし、ただ面白いだけの小説を書く気にはならない。その姿勢だけは作家を名乗った当初から変わっていない。やはりこの時代に生まれた者として、社会になんらかの足跡を残しておきたいもの。
自分はやはり小説家ではなく、作家。作家として小説を書きたいし、エッセイも書きたい。そして受け取った相手の人生に米粒ほどの影響でも与えられたらいいなあと思う。その読書が単なる娯楽に留まらなかったと感じてもらえるように。
だから楽しむばかりの時間を嫌う。小説の分析も楽しいばかりではダメ。苦しいのも経験しないと。そのバランスが、大事。
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