たぶん、脳力が必要な創作活動は向いていない

 

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今日は休もう。ここ数日のあいだ神経を酷使しすぎた。またあの体の浮遊感が生じてきている。

こうした体調悪化の兆候からもわかるように、自分には高等な学問を探求できるほどの脳力は備わっていないようである。せいぜい中程度の知能レベルといったところか。

小学生の頃からまともに勉強していれば自分もきっと高偏差値の大学に進学できていたに違いない。そんな妄想を抱いた経験のある人は少なからずいるのではないだろうか。もしもあの遊んでいた時間を勉強にあてていれば、もしもあのとき勉強が嫌いになっていなければ、自分にだってそういう人生を送れた可能性もあったはずだ、と。

成績の良かった者たちは、勉強そのものが嫌いだった自分などとは違い、それ自体が大して嫌そうには見えなかった。むしろ好んで取り組んでいたように映った。何かを詰め込むことや新たな知識を得ることを心から楽しんでいるみたい。勉強が嫌いでないからこそおのずと成績も良かったのだろう。だから自分も嫌いにならなければその方面の人生もあったはずだ、と、そういった論理で考えていたのだと思う。

しかし、おそらくそれは思い違いだ。成績の良い者たちは高い脳力ゆえに勉強が好きなのだ。

脳みそを使うことが好きであるために勉強そのものが好きで、何かを詰め込もうと志向する知的好奇心が旺盛であるに違いない。体を動かすのが好きな者がいるように、頭を動かすことそれ自体が好きな者もいる。彼らにとっての勉強は、運動好きにとってのサッカーや野球と同様、単なる遊びの一環に過ぎないのではなかろうか。ゆえに子供の頃からの取り組み方が違ってくるのだ、というのが私の考察。

つまりは勉強が好きにならなかったということは、自分はそこまでの脳力を有してはいないのだろうと思われる。運動が苦手な者たちにそこまでの身体能力が備わっていないのと同じように。

これはネガティブな話ではなく、単なる分析。脳力の違いなんてのは、足が速いだとか高く飛べるなどといった差と同様、単なる身体機能の差に過ぎない。それらが備わっていようがいまいが、どのみち〝それを使って何を成したのか?〟というのが人生のテーマであるのだから。

要するに何が云いたいのかといえば、自分はこの方面に力を尽くしてもおそらく芽が出ないであろうということ。この方向性の努力をいくらしたところで、売れっ子の作家にはなれない可能性が非常に高い。費やした苦労はほぼ間違いなく徒労に終わるということだ。ああ、やっぱりネガティブに聞こえてしまうだろうか。

私は思う。自分にとって感度の高い方面に向かって足を進めた方がいいと。

その方が良いパフォーマンスを発揮できるし、おのずと結果にもつながりやすい。向いていないことに力を尽くしても苦労ばかりがついてまわることになる。それがどうしてもやりたいことなのであれば仕方がないが。

自分が創作に励むべきは高い脳力を必要とする分野ではない。己の感性を活かして創作する場である。そのことを最近、ひしひしと感じるようになった。それを自覚させるためにわざわざ遠回りをさせられているような、そんな気さえする。

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