とても諦めの悪い人間です
過去に大ボラを吹いたことがあります。
家族や同級生たち、そして教師勢にまで大口を叩き一人大阪に出てきた18歳。いざ現実を目の当たりにした青年の志は、わずか一夜にして真っ二つに折られてしまいました。”パキッ”という小枝を踏んづけたような音が頭の中で鳴ったのを聞きました。
それ以来、もう二度と中途半端に投げ出しはしないと決めました。
広げた大風呂敷をこそこそと引っ込めるような格好悪いマネはもう二度としたくない。旧友からの追求に体裁を繕い、後でどうしようもなく惨めな気持ちを味わうのはもう二度とゴメンだ。
そのような強迫観念にも似た思いが、自分自身に諦めることを諦めさせます。
ここ数週間はずっと著名な作家の著書ばかりを読んでいます。
そして日々圧倒的な敗北感と劣等感を目の前の現実として突きつけられています。お前の頭の中の理想と実際にはこれほどの乖離があるのだと。
まだ無知であった初動の頃には分からなかった”書く技術”というものが、今では痛いほど視界から脳へと伝達されてきます。それはある意味で霊感のように、目を背けたくなるほどの真実を無理やり自分に認識させます。
ポジティブに考えれば自分の実力が上がったからこその現象なのでしょうが、井の中の蛙大海を知る、大海を知った時の絶望感の波は当初の大志をひと飲みに飲み込んでしまいます。
よほど何かにしがみ付いていないとその勢いに拐われてもう二度とスタートラインに立てなくなりそうです。そう、例えば「根拠のない自信」とか「過去にもらった数少ない称賛の言葉」とか・・
そもそもがこのレベルに至ってようやくスタートラインに立てた、ということなのかもしれません。
しかし、勝負はこれからです。
ここで諦めてしまえばこれまでの努力はすべて水の泡、無駄な努力となってしまいます。
絶望感に打ちひしがれてからこそが本当の戦いです。
ここで諦めてしまうのか、それとも必死に喰らいついていくのか、今この瞬間が分岐点であることを経験則で感じ取っています。
過去に何度もこのような場面がありました。
もういい加減に諦めた方がいいのではないか、どう考えても自分には無理なのではないか、そう感じざるを得ない瞬間が何度もありました。希望などまったく見えませんでした。どう目を凝らしても光明など見つけられませんでした。
それでも、決して、歩みを止めることはしませんでした。
信じるという選択肢を選ぶことすらせず走り続けました。
するとそのうち遠くの方に一筋の光がチラリと見え、その方向に向かって前傾姿勢でひたすら駆けていると、いつの間にか視界は色鮮やか景色に変わっていました。夢中で駆けている時は視界の変化など気にも留めないからかもしれません。
その経験があるからこそ、今回も絶対に諦めません。
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