2021/09/29

イタイ奴か、スゴイ奴か

 

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バカと天才は紙一重らしい。天才の発想は奇想天外かつ常軌を逸しているがゆえに、その多くは現実的でないのかもしれない。とくに社会という枠組みに当てはめて考えた場合には。

だからこそバカとの差は紙一重なのだろうと思う。バカの発想も、天才の発想も、「ほとんど使えない」という意味においては、大差はないのだから。

下手をすると、発想だけでなく、その者の存在も同様であるかもしれない。つまり、バカな人物も、天才的な人物も、社会という枠組みに当てはめて考えれば、ほとんど使えないという意味において大差はない、ということ。安定して及第点を挙げられる人物の方が社会ではよっぽど重宝されるから。

しかし、それでもバカと天才には天と地ほどの差がある。

バカの称号を与えられて喜ぶ人はいないし、自分がバカであることを心から誇りに思っている者はまずいない(誇っている者はたぶんそんな自分を賢いと思っている)。対して天才の称号は、求めはしないにしても、与えられて嫌悪する人はいない。また変人である自分を心から卑下する者もいないと思う(卑下する者はたぶんそんな自分を特別だと思っているはず)。やはり、天才に対しては羨望の思いを抱かずにはいられない、というのが社会からの評価であると思います。

では、このバカと天才との差は一体、何によって決まるのだろうか? という疑問に対する答えが、今回のテーマに対する答えと一致します。

個人的に、その差は「結果」なのではないかと思います。つまり、社会的に見て大きな結果を出した者が「天才」であり、また「スゴイ奴」である、ということ。その者の発する言葉、発想、そういった要素ではなく、それらを使って現実社会で生み出した結果がその者の気質を決める、ということです。要するに天才かバカか、そしてイタイ奴かスゴイ奴かの差は、周りから与えられる評価だけでしかない、ということです。

何が言いたいのかといえば、イタイ奴はやはりイタイ奴なのだ、ということです。

たとえその者が、周りから「あいつはスゴイ奴だ」という揺るぎない評価を得ていたのだとしても、その者の本質は、やはりイタイ奴なのです。その者がスゴイ奴であろうがイタイ奴であることに変わりはない、ということ。

おそらくイタイ奴は、幼少の頃からずっとイタイ奴だったはずです。学生の頃から周りからちょっと浮いていて、どちらかといえば学友たちから避けられていたような人物だったはず。SNSにイタイ投稿をして陰でバカにされていたり、友人の結婚式の二次会で「今のアイツさ、知ってる?」などと酒の肴にされて笑われたり。それがたまたま大きな結果を出したものだから、周りは一転してその人物をスゴイ奴だと評価をあらためた。両者の差とは、実のところはそんなものなのではないでしょうか。

だから僕はこう思いました。イタイ奴はイタイ奴であり続けるのが一番いい、と。

変に自分を変えようとすると、せっかくのイタイ奴という生来からの気質が失われてしまうかもしれません。きっとイタイ奴も努力をすれば普通の人物になることはできる。だけど、普通の人物がイタイ奴になることはできない。なぜなら「イタイ奴になりたい」とは誰も思わないからです。そう、まさに自分がバカであることを心から誇りに思わないのと同じで。

イタイ奴には、なろうと思ってもなれやしない。

だからこそイタイ奴というのは、あるいはダイヤモンドのような希少な気質の持ち主なのではないでしょうか。求めても得られるものではないし、努力したところで身につけられるものでもないのだから。

スゴイ奴になることはできます。天才になることもできます。それらは、結果さえ出せば自ずと得られるものなので。

自分がそうなのかは分からないけれど、とにかく自分は、自分であることを曲げないようにしようと心に決めました。おそらくイタイ奴というのは、イタイ奴であることを堅守する努力が求められるはずなので。

あるいはそれが、イタイ奴がスゴイ奴になるための唯一の道なのかもしれない。そんなことをふと、思いました。

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