2023/05/16
イデオロギーのプレゼンには拠り所が要る
ここ数日、いくつかの哲学書を読み耽っている。読み耽るというと聞こえはいいけれど、難解な論拠の羅列に辟易しつつ、眠気と闘いながら、脳みそに鞭を打っての必死な読書。訳がわからないと感じながらも無理やりに詰め込み、中盤以降になってようやくおぼろげながら意味がわかってくるという、まさに我慢の読書だ。課される読書ほど忍耐を要するものはない。
ここに至ってどうして哲学書なのか、という疑念は多少あったものの、持ち前の予感がそうすべきであることを確信させ、即座に寄り道の決断をくだした。何を書くのか(内容)が重要である、という知覚を得てすぐにAmazonに飛んだ次第。
数冊読んでみてすぐにその理由が判明した。イデオロギーのプレゼンにあたっては、その拠り所となるものが必要となることを、哲学書を通じてまざまざと思い知らされたのだった。
自分は勘に頼るところの多い人間であると自覚している。それが功を奏した場面は多々あったし、またその性癖を変える必要もないと思っている。それが大矢慎吾という人間の個性だし、その人間性から生まれ出でる作品こそが、おのずと作家としての作風になるとも思っている。
とはいえ、他者に何かを主張するにあたっては、世間一般に公開されている論拠というものがないと、やはり説得力に欠けてしまう。それがなければ主観に偏ってしまうし、小説におけるフィクション性を悪い意味で高めてしまう。非現実的という印象を帯びて。その程度によっては読書から〝荒唐無稽(バカバカしい)〟の部類に入れられてしまうだろう。
わざわざ劇中に引用する必要はないし、また説明する必要もない。けれども物語の描写の背後にはそれがあることをぼんやりと理解させる、あるいは一貫性によってそれを感じさせるといった姿勢が必要になると、推測される。あくまでまだ推測の域をでないものの、この考えはきっと的を射ているであろうと確信している。
まずはそれなりに体系だった思想を築き、それを拠り所にして物語へと昇華していく。表現していく。それが純文学という小説なのではないかと、そんな感触をいま抱いている次第。
少なくとも自分の想像するイデオロギーのプレゼンテーションにあたっては、そのような拠り所があった方が物語に厚みができ、また読み手にとっての面白さが増すものと想像される。
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