2021/05/12

エンタメが気色悪くなる傾向を感じる

 

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「エンタメ」と対極に位置するものは?

個人的には「思いやり」だと思っています。

エンタメは大勢の人たちのことを思って提供するもの。

思いやりは一人の個人のことを思って提供するもの。

エンタメは大勢の人たちを喜ばせるために、パフォーマンスをしたり、演じたり、あるいは嘘をついたりする。

思いやりは一人の個人のことを慮って、言わないようにしたり、聞かないようにしたり、あるいは嘘をついたりする。

もしも善悪の価値観を省き、単に「事実でないこと」をすべて「嘘」だと定義するならば、どちらも嘘をつくという点では共通しています。その対象が大勢のためなのか、もしくは誰か一人のためなのか、という違いだけで。

 

 

面白ければなんでもいい。それがエンタメ、”左の極”だとする。

誰一人傷つけたくはない。それが思いやり、”右の極”だとする。

エンタメを究極まで追求すれば思いやりは失われていく。面白ければなんでもいい。たとえ人を傷つけることになっても。お客が望んでいるのだから演者はひたすらその注文に応えるべきだと。笑わせることに徹するべきだと。怒らせることに徹するべきだと。

それに対して・・

思いやりを究極まで追求すればエンタメは失われていく。誰一人として傷つけたくはない。それはとても地味で、真面目で、ありきたりなもの。わざわざお金や時間を使って視聴するようなものではない表現。

両者はトレードオフの関係にある。

片方を満たせば逆側が欠けてしまう。両方を満たすことはできない。つまりは、どの程度のバランスにするのかという話になる。

これまでは、エンタメの世界を表現しつつも、わずかばかりの思いやりが残っていた気がします。限りなく左の極に偏っていたとしても、”いききらない”ようにしていたと思う。いきすぎないように、右の要素を絶対に少しは残していた。

けれども、最近のエンタメの世界からは、右の要素を感じないことが増えました。視聴者として見ていて、「これってエンタメのことしか考えてないんじゃないの?」と思ってしまう。

「面白ければなんでもいいだろうが」

そのような表現がなされているように感じてしまう。これは、僕だけでしょうか?

 

 

誰もが誰かを楽しませるためにやっている。それがエンタメの世界だと思います。

けれどもそこに思いやりが欠けた時、つまりは左の極に偏った表現がもはや慣行となってしまった時、エンターテイメントは、ひたすら気色の悪い世界と化すのではないだろうか。

そんなことを最近、思ったりします。

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