2022/05/27

今日の自分を思い切り体験することが肝要

 

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ビールが美味しい快晴の休日。妻の焼いてくれた羽根つき餃子と共に。

もうアルコールを楽しむのは難しいのかもしれないと思った数週間前。こうして美味しいものを美味しいと感じられるのが誠にありがたい。なんだか昨日から感謝ばかりしているな。まるで病に伏している者みたい。至って私は元気だ、心配はご無用。

なにかの小説で「老人の方が生に対する執着心は強い」という台詞を読んで、その時はいまいち納得がいかなかったけれど、自分も歳を重ねるにつれて、生きることの素晴らしさをより実感するようになってきた。暗黒の学生時代が嘘のように毎日が幸福に満ちている。

それはもしかすると『分かってきた』からなのかもしれない。

自分は自分のままで生きていいのだと、そして自分の道を生きればいいのだと、他者と比較する相対的な視点ではない「絶対的な視点」をもつに至って、ようやく人生が尊いものだと気がつけた。気がついたら今度は「もっと色々体験したい」という欲が芽生えてきた。その思いは最期の瞬間が近づくにつれて強くなっていくものなのだろうか。肉体にともなう死の実感と共に。

絶対的な視点とは、いうまでもなく己の視点。人生は一人一人固有の体験であり、他人との共有は強制ではないと知ること。価値観、思考、正義、道徳、倫理、そしてあらゆる体験を、決して他人と共有する必要などない。すべて自分の中だけで完結させようとも一向に差支えはない。なぜなら、人は一人でも生きていけるからだ。

ただしかし、自己完結ばかりの人生は、つまらない。

得られる満足感も自分一人で味わってばかりいると、段々と飽きてくる。そう、単純に〝飽きる〟のだ。別に、寂しいわけでもなければ、虚しいわけでもない。ただ飽きてきて、つまんないからこそ、そこで初めて人との関係を求めるようになるだけ。それは決して〝人は一人では生きていけないから〟という社会規範によって強制されるものではない。他者から説かれてそうするのではなく、己の内側から自発的に生じる衝動によって起こす行動なのだ。

仏教では、人は最後は必ず一人で死んでいく、と説かれる。それこそが真理で、つまりどういった体験を経たとしてもどのみち最後はその者固有の体験となるということ。誰しもに待ち受ける「死」という絶対的な運命とは自分一人で向き合うしかない。それがすなわち「生」に対する姿勢をも示唆している。なぜなら生と死は表裏一体で、同時に向き合ってこそ初めて意味を成すものだから。

よその国でいま何が起きていようと関係ない。道徳的には冷血だとか、社会性に欠けるなどの批判を浴びる発言かもしれないが、もっともらしい理屈をいくら並べたところで、どのみち人は一人で死んでいくのだ。そしてその死はその人間固有の体験なのだ。

そちらに思いを馳せるのだったら、尚のこと、今日の自分を思い切り体験すべきだと私は思う。自分たちには自分たちに与えられた道がある。与えられた体験がある。それを思い切り体験するのが、誰かの無念を晴らすことになるのではないだろうか。

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