2021/11/11

今日はおばあちゃんの誕生日

 

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家族の誕生日には電話で直接言葉を伝えよう。そう思うきっかけを僕に与えてくれたのが、おばあちゃん(母方)です。

今年は手紙を書きました。もうずっと会えていないから。施設にいる祖母に手紙を書いたらすごく喜んでくれたので、おばあちゃんもきっと喜んでくれるはずだと思い、今回初めて、自身の思いの丈を数枚の便箋に綴ってみました。

自分の場合、手紙を書くのはとても時間がかかります。また多大なエネルギーを消費します。

一通の手紙を書き上げるのにだいたい5、6時間。清書に費やすのは1時間ほどで、書く内容を考えたり、構成を見直すのにほとんどの時間をかけています。便箋に清書する段階では心労のために手が震え、完成する頃にはもうフラフラの状態に。それほど根詰めて数枚の手紙を書き上げる。もともと字が汚いのに震えているせいでもう読みにくいったらありゃしない。だけど、不細工でも手書きで書くことに意味があると思って、そうしています。

誰かに向けて手紙を書いてみると、いろんなことに気づかされます。

最初に自分が思いつく内容は、大抵〝自分が相手に言いたいこと〟である場合が多いです。こんなことを伝えたい、とか、こういうことを知ってもらいたい、という感じで。自分から手紙を書こうと思い立ったのだからそれは当然といえます。

ただ、それらの思考を下書きの紙に書き出し、いざ目を通して読んでみると、なんとなく違和感を感じます。

「果たしてこれを読んだ相手は心から喜んでくれるのだろうか?」

たしかに相手に対する感謝は述べられているし、相手を褒め称える言葉もこれでもかと盛り込まれている。けれども、それらはすべてこちら発信のものであり、どこか一方通行のような感じがしてしまう。ともすれば自分の思いを相手に押し付けてしまっているだけかもしれない、と。あるいは「これを言えば相手は喜ぶだろう」という小賢しさがその文面から透けて見えるのかもしれない。

そうした違和感はきっと、手紙が相手のために書かれたものなのか。あるいは自分のために書いたものなのか。その自身の気持ちに由来にするものだと僕は思っています。そしてそれが後者であった場合は、いつも上記のような不安が頭をよぎってしまいます。

ところが、これが相手のために書かれたものであったなら、上記の不安はほとんど消え去ってしまいます。

手紙で相手を真に喜ばせたいと思うのならば、自分が相手に向かって言いたいことを書くのではなく、〝相手が自分に言って欲しいであろうこと〟を書く。その意識に立って内容を見直してみると、当初に浮かんだものとはまったく違う内容が浮かんできます。

今回の場合は、自分が苦しかった時におばあちゃんが助けてくれたことに対する感謝の思い、を当初綴ろうと思っていました。けれども相手が自分に言って欲しいであろうことを考えてみると、きっとそんなことではないだろうと思いました。おばあちゃんは別に、孫に感謝されたいわけじゃないだろうし、孫の人間的な成長はもう十分に見て知っているはず。

それよりもおばあちゃんが孫に言われたいこと⋯⋯あれこれと考えてみたところ、それはきっと「思い出」なのではないかという考えに至りました。

小さい頃からのおばあちゃんとの思い出。小学校の夏休みに遊びに行った時の話や、中学の冬休みに温泉に出かけた時の話。あと川遊びをしたことや駄菓子屋でお菓子を買ってもらったこと。家族みんなでトランプをしたこと。おばあちゃんが7並べに強かったこと。おばあちゃんが作ってくれた味噌汁やシーチキンご飯のこと。孫の僕がやたらと好きだったたくあんのこと。そして僕が心を閉ざしていた時に寄り添ってくれたこと。

それらを思いつく限り羅列して捧げました。これまでの家族の思い出が詰まった四枚の便箋。たった四枚に5時間。相変わらずの牛歩作家ですね。

 

おばあちゃんから電話がきました。

「昔のことまで覚えててくれて、ほんとに涙が出るくらい嬉しい」

自分の綴った内容が、おばちゃんにとっての〝言って欲しい言葉〟だったのかどうかは分かりません。ただきっと、自分が手紙に詰め込んだ想いは、読んだおばあちゃんにも伝わっているはず。

おばあちゃんの言葉を聞いて、書いた僕の方も、嬉しくて胸が一杯になりました。

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