2023/07/21
仮)私と私、と私 10
男の何度目かの告白に対し、私は微笑を浮かべたまま黙っていた。見るともなく外の様子をぼんやりと眺めていた。
「わかってる。僕を傷つけまいとして何も言わないんだよね。そういうところも、やっぱ、ほんとうに優しいと思う」
こうして私が態度をはっきりさせずにいると、男は何かしらの作話をこしらえ、この延長戦をまだまだ継続させようとする。そんなことをもうかれこれ数ヶ月以上続けている。
「アユミのことをさ、知れば知るほど、どんどん好きになっていくんだ。これって僕の人生において初めてのことなんだ。たいがい人っていうのはさ、その人物のことを知れば知るほど、どんどん嫌いになっていくものだ。たとえ第一印象がすこぶる良かったとしても、知り合って相手のほんとうの姿が見えてくるうちに、やっぱり自分が思った人物とは違ったという落胆の気持ちが湧いてきて、最初好感をもっていた相手もいつしか穢らわしい生き物に見えてくる。人間っていうのは得てして欲深くて愚かしい存在だからね」
私はうんうんと首を上下に振った。まるで自分は人間の範疇には属さないといったような男の言い草に幼さを感じ、やっぱり貴重だな、と私は思った。
「ところがアユミはそうじゃない。アユミのもつ本能的な優しさ、思いやり、人間愛、そういったものが会うたびにくっきりと映し出されてくるんだ。最初に僕がアユミを好きになったきっかけって話したっけ?」
「ううん」
「僕が納品されてきた商品の品出しをしていたんだ。空っぽの商品棚にいち早く陳列させるべく積まれた段ボールを開けてね。時間帯的に店はそんなに混んでなくて、この隙に一気にやってしまおうと作業に没頭していたんだ。お客さんの存在を疎かにしてしまうくらいにね。はっと気がついて、さっきのお客さんが入ってきてからもう十五分くらい経っていると思って、慌ててレジに戻ったんだ。もしかすると待ちぼうけを喰わせてしまってるんじゃないかと思ってね。すると僕がレジに立つや、ゆっくりと女性が歩いてきて、お弁当のミートスパゲティが一つだけ入ったカゴをレジ台に乗せた。そして怒るでもなく僕に向かって微笑んだんだ、〝ご苦労様です〟と言わんばかりにね。その微笑みを見てわかったんだ。この女性は、僕が必死に作業しているのを見ていて、区切りがつくまであえて待っていてくれたんだとね」
それが私だったというわけか。
もちろんそれは意図してやったことではないけれど、それにしてもなんという自意識過剰なエピソードであろうか。そんな状況でおおらかに待っていてくれる客などいるはずがない。いたとしたら大きな声を出すことを極度にはばかる内気な客か、潔癖なほど他人との関わりを拒否しようとする自閉的な客で、待つのではなく歯噛みしながらその状況に耐えていただけだろう。
それほどに自分には女を惹きつける魅力があるとこの男は思っているのだろうか。だとすればそのおめでたさにはまったく頭が下がる。おそらくこの男は学生時代、〝やたらと目が合うから〟というだけのことを拠り所にして勝手に自分の頭の中で同級生との恋を進行させていたタイプだったに違いない。まったくそんなことで相手が自分を好きだと本気で信じられるのだから、男の恋愛スイッチというのは過信をその動力源としているらしい。それくらい簡単に恋が始まってしまったら結婚などほんとうにただの紙上の約束事と化してしまうではないか。ただそのおかげで私は、これほど容易に快楽に興じることができているわけだけど。
「それからいつも慎ましやかに列に並んでいる女性の姿を見ていて、この人はきっと深い思いやりをもった人に違いないと僕は考えていたんだ。案の定、勇気を振り絞って手紙を渡してみたらしっかりと受け止めてくれた。いまどきラブレターなんてちょっと気味が悪いと普通は感じると思うんだ。だけど僕の渡した相手は不快な表情ひとつ浮かべなかった。しかもすぐに断るんじゃなくて、ちゃんとじっくりと考えたうえで返事をしてくれた。それも勇気を見せた僕に対する誠実な対応だったと思うんだよね」
まさか私の知らないところでそんなストーリーが展開されていたとは。この男の創造力にはまったく恐れ入る。
「正式に断られたにも関わらずまだしがみつこうとする僕を、女性は慈悲の心から関係を完全に断ち切ってしまわないで、まるで僕の精神状態をケアするかのように連絡先を交換してくれた。そして何度も会って話を聞いてくれた。毎回僕のことを励ましてくれて、褒めてくれて、男としての自信を与えてくれた。これほど献身的な女性はいまどき探してもなかなか見つからないと思うんだ」
これほど自分に都合良く作話ができる人物もそうはいないだろう。おかげでこちらもそれなりに楽しませてもらっているわけだから、この男の盲信ぶりには感謝を捧げたい。
「アユミ」
男はあらたまった様子でこちらに顔を向けた。汗がにじんで水墨画のような顔がさらにボヤけて薄まっていた。
「僕はアユミの守護天使になるよ。いつも後方で見守っててさ、アユミがいざ危ない目に遭ったら僕が出ていく。アユミほど献身的にできるかどうかわからないけどさ、誠心誠意、アユミに尽くす。僕はそうやって生きていくことに決めたんだ」
男の目は血走っていた。その稲妻のような筋を見るや、私の背中がなにやら疼きだすのがわかった。
「ありがとう。遊助くんがいてくれて私も心強いよ」
「ほんとうに?」
「うん、ほんとうに」
男は私の言葉を聞いてうっとりとした表情を浮かべた。自分の存在価値が認められたことがよほど感に堪えなかったのだろう。これほど欲している言葉が明瞭な男も、まあいない。
私たちの背後で店員が忙しなく片付けをしている様子が目に映った。どうやらそろそろ閉店時間のようだ。
「だけどさ、どうしてここまで僕の相手をしてくれるの。連絡ももうとっくに無視されててもおかしくないのに。毎回ちゃんと返してくれるもんね」
「そうだね」
「もしかしてまだ脈あるってことかな」
私は窓に向かって微笑みを投げた。駅前に群衆がどっと詰めかけている。その誰もがこちらに注目しているような気がした。
「っていうか僕のことさ、ちょっとずつ好きになってきている、とか⋯⋯」
私はふいに男に顔を向けた。調子に乗るなよ、という冷たい視線を男の顔に突き刺した。
「⋯⋯いや、そんなわけないよね。違うんだ、別に見返りを要求してるわけじゃないんだ。ごめん、なんだか浮かれちゃって」
途端に男はしおれたように小さく肩を縮こませた。筆で書いたような眉毛がハの字に弱々しく折れ曲がっている。
「うふふふ」ほんとにいい顔するなあ、と、私は喉まで出かかった。
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