2023/03/11
仮)私と私、と私 11
風呂あがりのほてった体を心地よい風になでられ、私は快適な気分で扇風機の前にあぐらをかいていた。そのまま日課のストレッチに入る。しなやかさはあらゆる場面において男を虜にすることを知っていたけれど、これは自分自身のために続けている習慣だった。健康でいることは、そのまま生まれてきたことへの感謝を示すことになるはずだと、私はそう信じていた。
ぺたと座ったまま足を伸ばし、片方の足をクロスするように曲げ、そこを支点にして上半身をぐいとひねる。立てたひざにひじを押し当て、後方を振り向くようにして背中を反らす。ぐいっ、ぐいっと、息が漏れるくらいにまで、強く体をねじりあげる。そうすると凝り固まった体の筋がほぐれるとともに心も和らいでいく。濡れた雑巾をぎゅっと絞ったように体内に溜まった毒素が下に流れていく、その感覚が好きだった。
冷蔵庫からミネラルウォーターを一本掴み、キャップをひねるとごくごくと喉に流し込んだ。そのまま左手でリモコンに触れテレビの電源を入れる。ふとスマートフォンの画面に通知が表示されているのに気がついた。見てみると母からのラインだった。
〝うちの花壇に新しい子が仲間入りしました〟
メッセージの下に写真が添付されていた。いろんな角度から撮った黄色い花が映っている。たいして知識がない私でもその花がパンジーであることがわかった。
〝かわいいパンジーだね。他の子たちとも相性が良さそう。今度また見に行くよ〟
しかしパンジーとは母らしいな、と私は思った。学校やテーマパークの花壇にはたいがいパンジーが咲いているようなイメージがある。いわば花壇の定番といった印象の花。保守的な母がそれを選んだことにはどこか納得がいく。
兄と私が社会人になって一人暮らしを始めたことで、実家では何十年ぶりかの父と母二人きりの生活が始まった。もともと専業主婦だったこともあって、最初は母も手持ち無沙汰で退屈な日々が続いていたようだったけど、最近になって少しずつ自分なりの楽しみ方を見つけだしているみたい。父と旅行にでも行ってみようかと思う、と、この前照れくさそうに話していた。送られてきたパンジーの写真を見て私はまたひと安心した。
テレビ画面には夜の報道番組が流れていた。女のアナウンサーが神妙な顔をして一日の事件を伝えていた。
「本日午前、安岡市内の小学校において、男子中学生が包丁をもって暴れ、切りつけられた教員や生徒ら数人が病院に運ばれました。中学生はその場で教員らに取り押さえられ、駆けつけた警察官によって署へと連行されました」
映像が切り替わり上空から現場の学校を撮影した様子が流れる。テロップが表示され、校庭に集まった生徒らが画面に小さく映っている。〝誰でもいいから殺したかった〟という青い文字が表示され、再びスタジオの映像に切り替わった。
ふいにスタジオに返ってきたのか、一瞬、女のアナウンサーの苦々しい顔が画面に映し出された。気づいたアナウンサーはすぐに平坦な表情を作り、次のニュースの原稿を読みあげた。日本人のダンサーが海外で賞を獲ったらしい。
私は流れている映像をぼんやりと眺めていた。頭のなかでは女のアナウンサーのことを考えていた。
ひと昔前までは、このての少年事件が報道されると、スタジオにいる心理学者に何かしらの考察を求めるといった流れがあった。少年の生い立ちや家庭環境、学校での成績や友人との関係などから少年の人間性を分析し、犯罪に至った経緯を紐解いていく。
考察はきまって〝特異な家庭環境〟にその源泉を見出した。親から子への虐待や度を超える厳格な教育方針をその代表例とし、幼少期からの異常な発育環境が少年の人格形成に大きな影響を与えた、とする。要するに親の教育が悪かった、というところに要因をもっていこうとする心理分析だ。
けれどもすべての例をその型で説明することができなかったのか、あるいは分析したところで明確な因果関係を見出すことができない事例が増えてきたのか、こうした専門家による心理分析というのは最近あまり見なくなった。その代わり、いつからか『サイコパス(精神病質者)』という呼称が一般に定着し、それ以降、猟奇的な犯罪を犯す者はそちらの方面に推定されることが多くなったように感じる。とりあえずわけのわからない犯罪はすべてそれでひと括りにしておけばいい、といった具合に。
人は正体がわからないものに対して恐怖を感じる。だからなにかしら名称を付したり、いずれかのカテゴリーに括ってひとまとめにしようとしたりする。そうすることで不透明であった存在を「あれ系統の」として認識することができるからだ。ひとまず既存の何かに分類することができれば安心感が得られる。
「サイコパス⋯⋯。」
たしかに私はそうなのかもしれない。仲睦まじい両親、どこにでもある普通の家庭環境、それらしい因果関係は何一つ見出すことができない。きっとこれは私の持って生まれた気質なのだろう。親類で似たような悪癖の人も聞いたことがなくもはや遺伝でもなさそうだ。
近ごろは個人がもつ多様性を尊重するべきだという主張をよく耳にする。〝ありのままの自分でいい〟そんな啓発がまるで新時代の合言葉のようにいたるところで聞かれる。それはまるで横並びが推奨された過去の呪縛から人々を解放しようとするかのようだ。
けれども私は思う。じゃあ、ありのままの自分がサイコパスだったら、一体、どう生きればいいのだろうか。
社会にとっては異分子であり、社会から隔離されるべき存在であると気づいてしまった人間は、その先の人生を、どのように振る舞い、どのような生き方をすればいいというのだろうか。
教えてほしい。教えてほしい。
──ねえ、教えてよ。
気がつくと私は、テレビ画面に向かって手にしたペットボトルを投げつけていた。ぶつかった飲みかけのミネラルウォーターがばしゃりと飛び散り、雨に打たれたように画面がしとどに水をかぶった。再び女のアナウンサーの顔がアップで映し出され、その瞬間、画面に垂れたひと筋の雫とそれはシンクロした。
その顔は悲しんでいるのか、愉悦に浸っているのか、私には、よくわからなかった。