2023/03/28
仮)私と私、と私 18
木枠の扉を開けて私はなかを軽く見回した。どうやら相手はまだ到着していないようで、ひとまず安心した。
いらっしゃいませと迎えられて「二名です」と指で示すと、いつものように最奥のテーブルへと案内された。店の入り口付近からも外の道路からも見えない、この喫茶店ではもっとも個室に近い、いわば特等席にあたるところだった。
昔ながらの純喫茶は混雑することがなくていい。いまどき分煙されていないカフェに好んで訪れるのは馴染みの客か近所の老人が大半で、知り合いと顔を合わせる可能性はほとんどゼロに近かった。タバコの匂いが髪や服に染みつくのは嫌だったけど、その煙幕が人を寄せつけないようにしているのだから、そこはよしと考える。しかもその環境によって男の苛立ちが多少緩和されるのだからちょうどいい。自尊心を傷つけられた男の怒りをあまり増幅させるような真似はしない方が無難だった。
この喫茶店は会社から三駅離れていて、しかも最寄りの駅からも十分以上歩いたところに立地している。毎回同じ用途で利用しているせいか、いつしか店のスタッフが気を利かせたように最奥の席へと案内してくれるようになった。それはサービス心からか、店内の空気が重くなるのを回避したいためなのか、どちらに由来するのかはわからなかったけれど、何も言わなくても気を回してくれるのがとてもありがたく、いつからかこの喫茶店ばかりを利用するようになっていた。マスターともまともに話したことはないが妙な顔見知りの間柄になっていた。
あの日以来、私は、斉藤という男と交際を結んでいた。ずいぶん堅い言い方だけれど、形ばかりのものではないので、私のなかではあえて区別してそう呼んでいる。
男と交際を結ぶのは高校のとき以来の試みだった。あの男がこの前言及したように、私はこれまでに一度も、人を好きになったことがなかった。まるでその反応を司る神経が欠落しているかのように、私の心は、一人の男に対して特別な感情を抱くことがなかった。
最後に結んだ交際のことは今では思い出したくもない。あれから決して男と交際を結ぶことはしないと心に決めていたのだけど、私の内にも『私』をどうにかしたいという未練が残っていたようで、あの男の申し出に私は「よろしくお願いします」と答えていた。
私のなかでは、おそらくこれが『私』という悪魔と決着をつける最後の機会だろうと思っている。年を重ねて女の魅力を失い、もはや男に相手にされなくなってからでは、きっと「真の恋」と「遊戯の恋」を秤に掛けて見定めることもできなくなるだろう。これは『私』との決別か、心中か、この先の人生を決める私の最後の恋愛になる、そんな予感がしていた。
だからといったわけではなく、今年もシーズンが終了間近ということで、私は一つ一つの出会いを着実に断っていっていた。今年は私自身があまり乗り気ではなかったこともあって、その数も少なく、身辺整理は例年よりもわりと順調に進んでいた。
ところが世の女に限らず『こじらせ男子』というのがいるもので、関係の断絶を容易に承諾してくれない相手が毎年何人かでてくる。いわゆる〝恋に恋している状態〟にある、理想と現実の区別がつかなくなってしまった男だ。そういった面倒な相手と話をつけるときに私はこの喫茶店にくる。
一生懸命な男というのは私の好物だった。私をどうにか振り向かせようと、あの手この手で趣向を凝らし、己の情熱を必死にプレゼンテーションするひたむきな男。そうした男は真面目な人物という印象が強い。愚直なほどに真っ直ぐで、不器用なほどに正直で、駆け引きなしに真っ向勝負を挑んでくる。そういう男は相手にしていて気持ちがよかった。
変にモテる男なんかの場合、フラれても大して傷つかないようにと、ほとんど冗談交じりに言い寄ってくる場合が多い。一般的にそれは〝重くならないように〟という女に対する気遣いであって、そういう振る舞いこそがスマートな男の口説き方のようにいわれているけれど、実際のところ、それは「失恋した」という明白な事実を突きつけられないように半分逃げ腰になっているだけなのではないだろうか。いわば出口に片足をかけながら女の陣地に踏み込もうとしているようなもの。そんな中途半端な姿勢でうまくいくのは目先に肉体関係がある場合か、もしくは女の方も空白を埋めるためにとりあえず始めてみようというお試しな交際である場合がほとんどだろう。
一生懸命な男は、恥をかくことも傷つくことも恐れず、ド直球でこちらに向かって突っ込んでくる。その分、打ち返したときの衝撃は相当なものになり、察するに、男側が受けるダメージも並大抵ではなくなる。大の男が人目も憚らず声をあげて泣いたりするのだ。その様が私にはとても愛おしくてたまらない。情熱に溢れた男の活き活きとした顔が絶望的な陰鬱の色に染まっていく、その落差が、悪魔たる私の脊髄をぞくぞくと慄わせた。
ただし、一生懸命であるのと、しつこいのとは紙一重だった。
私が遊戯の終了を明確に宣告した場合はもはや相手にも潔く退いてもらいたかった。それ以上はお互いに失うものはあっても得るものは何もない。そこから先はただただ疲弊していくばかりで、追いかける方も、そして追いかけられる方も消耗し、最後には心身ともに憔悴しきってしまう。まさしくドロ沼の域に突入してしまうのだ。それはもはやゲームとは呼べない。私はそこまでの境地は求めていなかった。
こじらせ男子は放っておくと何をしでかすかわからない。暴走した恋心は狂気となって男をおかしな方向へと向かわせる。ストーカー化する男などはまさしくその典型だった。
私は、危険な匂いを感じた相手に限っては、関係断絶の折にきっちりと話をつけるようにしている。そうしないとあとでもっと面倒なことになることがわかっているからだ。
今日もこれから一人の男と話をする予定でいる。そろそろ待ち合わせの時刻だった。
「電話でもお伝えしたように、私はもう田所さんとお会いするのはやめようと思っています。これ以上はご迷惑をかけるだけになってしまうと思うので」
私は挨拶も早々に話題を切り出した。このての相手に無駄な世間話は必要ない。
「どうしてそうなってしまったんですか⋯⋯僕たちはまだ何も始まっていないじゃないですか」男は嘆くように言った。
僕たち、という呼び方を男が使ったとき、その相手はこじらせ男子になっている可能性が高い。察するに、男の頭のなかでは私との関係がすでに成立されたものとなっているようで、すべての思考がその前提に立って展開されているみたいなのだ。その時点ですでに現実とのあいだに大きな乖離が生じている。
「僕は決して諦めませんよ。大丈夫です、アユミさんはきっと僕のことを好きになりますから。不安になるのはわかりますが、僕に一切身を預けて任せておいてくださいよ」
「⋯⋯。」
「そうだ、またあの星空を見に行きましょう。アユミさん、あのとき感じたトキメキをもう忘れてしまっているんじゃないですか? 無理もないですね、もうけっこう前の話ですから。そういえばあのとき、アユミさんは、これほどくっきりと夜空に浮かびあがった星々を見たことがないと言ってましたよね。なにせそれがずっと憧れだったんですもんね」
よくそんなことまで覚えているな、と思うと同時に、それを君に見せてあげたのは自分だと値打ちをつけたいのか、と考えて私は苛立った。
「あのイタリアンにもすごく感動してたじゃないですか。あれもシェフに頼んで特別に用意してもらったコースだったんですよ。いや、僕は別に恩を売りたいわけじゃないんですよ。ただあのときのアユミさんの笑顔は間違いなく、これまでに出会った男とは違うようだぞと自身で物語っていたのですよ」男は自信たっぷりな顔で言った。
別れの予兆を察知した途端に男はケチになる。するとあれほど羽振りの良かった男らしさの影は消え失せ、やたらと計算に細かく渋ちんでうるさい経理のおばさんが顔を出す。たいがいはその前段階で相手の魅力は失墜しているわけだけれど、最期の時が近づくにつれてどんどんメッキが剥がれていき、ついにはその下にある女々しい素顔があらわになる。そうなったらいよいよこちらが相手にときめくことは無いわけで、それはまさしく自ら墓穴を掘っているようなものなのだ。だからこそみっともない恥をさらす前になぜ潔く退かないのか、と、私はいつもこうした相手に不快感を覚えた。
「そう、僕は軽い男じゃありませんよ。アユミさんも言ってくれましたよね、僕が最初に誘った時のことを〝他の人と違って男らしかった〟って。そうですよ、僕は誰にでも声をかけるようないい加減な男ではありません。アユミさんだからこそこの機会を逃すまいとアタックしたわけで、この先もどんどん愛を育んでいこうと、こうして健気にアユミさんのもとに通っているわけです。それは真剣だからですよ。他のどうでもいい女だったらここまでしていません。ま、ゆっても僕もそこまで女には不自由していないですからね」
まったくベラベラとよく喋る男だ。ただのゲームに何をそんなにムキになっているのか。
「あっ思い出した。アユミさん、もっと僕のことが知りたいと言ってましたよね。そっか、うっかりしてたな。すいません、僕そのことを忘れてて、毎回どこかへ連れ回すような真似ばかりしてましたね。あーしまった、それが悪かったんだ。今後はもっと僕の趣味とかプライベートな部分も見せていきますね。そうだ、友達にも紹介しなきゃいけませんね。あいつらマジで羨ましがるだろうなあ。こんな美人で献身的な女性が僕のお嫁さんになろうとしているだなんて知ったら」
しつこい男には虫唾が走る。この期に及んでさらなる醜態をさらし、小さな自尊心に鬱陶しいほどしがみついて、勘違いの痛々しさをいつまでも周囲に撒き散らす。人間としてあまりに醜く、見苦しい。ゴミ袋にまとめて回収業者に引き渡したい気分だった。
「いやー気づいてよかったよかった。アユミさん、じゃあ気を取り直して⋯⋯」
「男として魅力を感じなかったんですよ」いつまでも話をやめない男の口を塞ぐように私は言った。
「⋯⋯えっ?」
「聞こえませんでしたか。あなたに男としての魅力を感じなかったんです」
私は冷淡な口調で言い放った。
「残念です」
テーブルのコーヒーカップを手に取ると、私は澄ました顔でそれをすすった。
男はぽかんと口を開けていたが、次第にその顔に歪んだ笑みを浮かべた。
「な、何を言ってるんですか、アユミさん」
「何度か会ってみてそれがわかりました。だから今後も私があなたを好きになることはあり得ないんですよ」
男は狼狽えた様子でスーツの内ポケットを手でまさぐった。そして取り出したタバコを口にくわえると、ぐらぐらと揺らめく炎を口元にもっていった。
「えっ、だって、アユミさんも僕のことを。というか、アユミさんから僕の方に──」
「最初はそうでした。すごく素敵な人だなあと思っていたんです。だけど会っていくうちにその熱が冷めていってしまったんです」
「なぜですか。僕が何か、アユミさんを幻滅させるようなことをしましたか」
「いいえ」
「だったらどうして」
私は手にしたカップに視線を落とした。真っ黒な湖におだやかな波が立っている。それは天井の照明を受けてキラキラとゆらめいていた。
「私の勘違いだったんです。ごめんなさい」
そう言うと、じっくりと味わうようにコーヒーをすすった。
男はしばらく唖然とした様子でタバコを咥えていたが、そのうちに眉間にしわを寄せ、怪訝な表情になった。
「勘違いだったって⋯⋯えっ、どういうことですか、それ。意味がよくわかりませんが」
ずっと続いていた男の貧乏ゆすりがにわかに激しさを増した。
「ですから、最初に感じていた気持ちが自分では熱情だと思っていたのですが、どうやらそういうことではなかったようだった、ということです」
私はゆったりとした動作でカップをソーサーに置いた。
男の顔にふつふつと怒りの色が浮かんでいく。その変遷はまるで、海に向かって潮がさあっと引いていき、そのあとで憤怒を乗せた波が猛然と陸に押し寄せてくるみたいだった。
「⋯⋯はあ? なに言ってっか全然わかんねえ。僕のことバカにしてるんすか」
早口でそう言うと、男はふう、とこちらに向かって煙を吐きつけた。前のめりになったその姿勢は攻撃体制に入った猪を連想させた。
「バカにするつもりなんて毛頭ありません。これはただ私の思い違いだったというだけの話なんです。ですから今回のことは心から申し訳なく思っています。ここまで振り回してしまって、ほんとうに、ごめんなさい」
私はテーブルに深々と頭を下げた。床に落ちていたパン屑が目に映った。
「ごめんなさい、って⋯⋯。」
男は息巻いていたものの、あとに続く言葉を失ったようで、そのままむっつりと黙り込んでしまった。代わりに火のついたタバコを灰皿に乱暴に押しつけて消した。
相手から勘違いだったと言われてしまったら、もはやそれ以上返す言葉はないだろう。いわば誤報だったのだから今さら何を言ったところで仕方がない。訂正を要求したところで何が変わるわけでもなく、あれやこれやと文句をつけても過ぎ去った日々はもう元には戻らない。クレームをつけても無い恋心は芽生えはしないのだから。
「じゃあ僕はひたすら無駄な努力をさせられてたってことすか」
「もっと早くに私が自分の気持ちの実態に気がついていればよかったのですが」
「なんだよ、それ。あんた自身の気持ちだろ? なに他人の心みたいに言ってんだ」
「⋯⋯。」
「チッ、まったくよ」
男は再び取り出したタバコに火をつけた。そしてため息をつくように深く煙を吐いた。
そのままそっぽを向いて何か考えるような様子を見せていたが、ふいに思い出したように、男はぱっとこちらに顔を向けた。
「あんたさ、会社で知り合った男にこんなことばっかりやってんだろ」
憎しみのこもった冷たい目が私の顔を睨んでいた。
「あんたとのことをさ、飯田商事の鈴木さんに話したら「あの女は絶対にやめておけ」って言われたんだよ。どうしてですか、って聞いても詳しいことは教えてくれなくて、「とにかく悪いことは言わないからやめとけ」って。あんたさ、こうやっていろんな男に思わせぶりなこと言ってたぶらかしてんだろ」
私は黙ったまま奥の壁を見つめていた。森林を写生した安っぽい風景画が架かっていた。
「真剣に恋愛しようとしてる男騙してよ。そんなことして面白えのかよ。マジで気持ち悪りい女だな、お前」
「言っとくけどな、こっちだって大して本気じゃなかったからな。別にお前以外にも遊んでる女いるし。つーか、お前クラスの女なんてそこら中にいくらでもいるんだよ。いい女ぶって受付に座ってるだけの単なる会社のお飾りだろ。やたらとお高くとまりやがってよ」
「おい、なんとか言えよ。反論しねえってのは要するに認めたってことか。澄ました顔しやがってよ、クソが」
男はテーブルの足をがつんと蹴った。ガチャン、と食器がかち合うやかましい音が店内に響いた。
「性悪女が。お前なんかどっか連れ込まれて犯られちまえばいいだよ」
吐き捨てるように言うと、男は鞄を掴んで足早に店を出ていった。ありがとうございました、という店員の小さな声が虚しく響いた。
私は残ったコーヒーを一気にすすり、ふう、と大きく息を吐いた。
──これでいい。
私のことを大嫌いになった状態で相手との縁を切る。こうすれば以後、つきまとわれたり、追いかけ回されたりすることはなくなる。とにかく男を洗脳状態から醒ましておくことが重要だった。
私は手を挙げて店員を呼んだ。そして償いの意味もこめて「ナポリタンとチョコレートパフェ」と言うと、「あ、あとコーヒーもおかわりで」と満面の笑顔を振りまいた。
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