2023/03/11
仮)私と私、と私 5
店を出ると外はすっかり夜に覆われていた。三角に欠けた月がビルの合間から見えていた。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「気に入ってもらえたならよかったです」
歩き出そうとする男を尻目に、私はその場で立ち止まっていた。そして空を仰ぎ見、しばらくじっと眺めていた。
「星、ですか」
男も同じように空を仰ぎ見た。
「たまにキレイに見えることもあるんです。だけど今日は残念な感じだなあ」
時期がよかったらここで白い息が漏れていたことだろう。
「星、僕も好きです。都会の夜空ってなんとなく見上げてしまいますよね」
いまの私は意図的に見上げていた。なまぬるいビルの隙間風が肌にまとわりついて不快だった。
「にいが⋯⋯アユミさんは星が好きなんですか」
不透明な星座に目を据えたままこくんと頷く私。
「満足に見れたことはまだないんですけどね。憧れみたいにいつも眺めています。そうしていればいつか満点の星空に出会えるんじゃないか、って」
私はしばらく無言のまま眺めていた。目を向けなくても男が考えをめぐらせているのがわかった。
「よしっ、僕に任せてください。今からとびきりの星空を拝めるところに連れていきますよ」
胸をどんと叩き、男は気負った様子でそう言った。さすが手持ちのカードが豊富だな、と私は思った。
「すごく嬉しい。とても楽しみです」私は満面の笑みを浮かべた。
「ただそれは、次の楽しみまでとっておきたいです。もちろん、田所さんがよろしければ、の話ですが」
窺うような上目遣いで私は男の顔を見た。
「ええ、ええ、もちろんです。僕も久しぶりなので楽しみですよ」
男はちぎれんばかりに首を縦に振った。この男はほんとうに素直な人なんだなあ、と私は思った。
「帰りましょう。駅まで送っていきます」
男は先導するように駐車場へと足を進めた。私は黙って後ろについて歩いた。男の肩は心なしか弾んでいるようにも見えた。
別に星空でなくても何でもよかった。ふと思いついたので言ってみたまでだった。
示唆を与えることで男の自尊心を満たす機会を作ってやる。いつからか自然とできるようになっていた。きっと、私は生まれた時からやり方を知っていたのではないかと思う。
夜の街の人工的な彩りが車窓に流れていく。私はぼんやりとそれを眺めていた。
まわりの車は白線で引かれたレールをはみ出さないように走っている。通行人はガードレールの内側を自分たちの安全域としている。働いている人は店の制服を着て客に笑顔を振りまいている。
ふと見ると、歩道に手を繋いだ三人が歩いていた。小さい女の子を真ん中に、挟みこんだ男と女が繋いだ手を上に挙げ、女の子の体を吊り橋のようにぶらぶらと宙で揺らしている。三人はまったく同じ顔をして笑っていて、それを見た私は思わず笑みを浮かべてしまった。絵に描いたような、とはまさにこの構図ではないか。
「着きましたよ」
車は地下鉄の階段付近で停まった。
「今日は楽しかったです。ありがとうございました」私はぺこりと頭を下げた。
「それじゃあ、また追って連絡しますね」
「楽しみに待っています」
そう言ってドアに手をかけると、男が「そうだ」と独り言のようにつぶやいた。さて何を言うのだろう、と考えながら、私はおもむろに男を振り返った。
「本気になってしまいました。そのことだけお伝えしておきます」
男はあらたまった顔でそう言うと、それでは、と私を促した。私は男に微笑みを投げて車を降りた。
プップッとクラションを鳴らして走り去る車。さっきまで自分が乗っていたのが嘘のように、それは大群に紛れてすぐに捉えられなくなってしまった。そういえばどんな色をしていたのだったっけ。
私はスマートフォンを取り出して電話帳を開くと、『田所 1』と入力して男の番号を登録した。
部屋の扉を開けるとむわっとした熱気が肌を刺した。パンプスを剥がすように脱ぎ捨て、廊下をすり足で急いで駆け抜けると、テーブルに置いたリモコンでエアコンの電源を入れた。同時に足で扇風機も起動させた。顔をプロペラの前にささげると強風が私の髪を左右にかきわけた。絵面だけ見たら口づけの様相だった。
しばらく涼んでいるとエアコンが効いてきて私は化粧台の前に腰かけた。いつもみたくとっとと剥がしてしまいたいと思ったものの、ふと眺めてみる気になって、じっくりと私の顔を観察してみた。横にふったり傾けたり、あごをひいてみたりした。浮かべている表情を作ったりもしてみた。
要するに〝ちょうどいい〟のだろう、と私は思った。
手に入る可能性を感じさせる。私がやってきたことはいわばそれだけだった。それを念頭に振る舞っていれば、そのうち向こうの方から嗅ぎつけて喰いついてくる。こちらは餌を垂らしていさえすればそれでいいのだ。
あとは肉体関係を結ばないように気をつけていればいい。手に入ったと感じた途端に男はゲームから降りてしまう。そういう失敗も学生時代には何度か経験した。やっぱり私も、最初から完成されていたわけではなかったみたい。だけどいまはそんな過去さえもむしろ愛おしく感じる。
帰りにコンビニで買ったアイスを袋から取り出して台にのせた。今日は『1』だったから、自分へのご褒美にハーゲンダッツにした。初回は能動的に動かないといけないから大変。喰いついてしまえばあとは受け身でなんとでもなるのだけど。
木のスプーンを取り出すと、うしろからの扇風機の強い風に飛ばされ、破った袋が床にひらひらと舞い落ちた。それを見たらふいに歩道を歩いていた三人の映像がまぶたに浮かんだ。袋はそのまま床に放置しておいた。
アイスにぐさりとスプーンを刺し、口に運んだ。治しかけの虫歯にしみて、思わず、涙が滲んだ。
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