2023/03/11
仮)私と私、と私 9
男に駅まで送ってもらい、そこで相手と別れた私は、二駅進んだところで電車を降りた。
改札を出るとスーツを着た男女の群れがどっと駅に押し寄せていた。食事帰りなのだろう、囲まれた群衆からはアルコールの匂いがぷんと漂い、あちこちでタバコの煙があがっていて、駅前はどこか異様な熱気に包まれていた。外には相変わらずの熱帯夜が広がっていた。
人をかきわけるようにして広場に飛び出すと、私はふう、と息を吐いた。それはため息というよりもひと仕事終えたあとの安堵に近かった。
これほど憂鬱な夜と接していながら私は気分が良かった。街の雑踏がパレードの鼓笛隊のように見えた。タクシーの執拗なクラクションが熱気を含んだ歓声のように聞こえた。濁った空気にさらされる汗ばんだ体も、コンサート会場にいるような活気を覚えて、むしろ心地がよかった。
あたりをきょろきょろと見渡し、通りに面したガラス張りのカフェを見つけると、私はそのままスキップするような軽快さで足を踏み出した。
近づいてみると店内にいる人はまばらでかなり空席がありそうだった。終日満席状態が続くあのカフェにしては珍しい。たぶん閉店時間がもう近いのだろう。
私の存在に気がついたのか目が合った。ああ、アユミ。口の動きでそうつぶやいたのがわかった。座っていた男は席から立ち上がり、私に向かって犬の尻尾のように手を振った。
「待たせてゴメンね」
店に入るや私はまっさきに男のもとへと向かった。
「全然待ってなんかない。ありがとう、来てくれて。ほんとうに嬉しいよ」
そういえばこんな顔だった、と私は思った。『遊助 5 済』何回会ってもこの男の顔は印象に残らない。いわゆる塩顔というのか、切れ長のまぶたに薄い唇、肌も色白で、全体的にのっぺりとしたその顔つきはふすまに描かれた水墨画を連想させる。
「なに飲んでたの?」
「キャラメルラテ。これ美味しいよね」
いつもうつむき加減にボソボソと話し、生まれつきそうなのかもと感じさせる弓なりに曲がった背中が、男の醸し出す陰鬱さをよけいに際立たせる。髪が短くまとまっているからまだいいものの、これで不精な頭だったらちょっとした大人の引きこもりかと錯覚してしまう。(設定上の)私と同じ二十五という年齢よりもかなり幼く見えるのでよけいにそうだった。
「急に連絡したのに来てくれて嬉しいよ。この時間だったら会社帰りじゃないよね。どこか行ってたの?」
「ちょうど会社の人たちとご飯に行ってたの。そろそろお開きかなってときに遊助くんが連絡をくれたからタイミングよかったかも」
「そうだったんだ。珍しいと思ったよ。いつもこんな急に誘ってもきてくれないからさ」
「そんなことないよ。いつもたまたま都合が悪いだけ」
星空を眺めた帰りにこの男から連絡が入り、まだ高揚感の余韻に浸っていた私は、ふたつ返事で誘いに応じた。いつもだったらダブルブッキングはまず組まない。
男の送ってきた誘い文句がまた秀逸だった。〝少しでもいいから会ってくれないかな〟その文面から必死に懇願する男の哀愁が滲みでていた。助手席でそれを目にした私は、思わずごくり、唾を飲んでしまったくらいだった。
「今日はバイト帰り?」
「そうなんだ。っていうか、またやっちゃってさ」
「まさか発注ミス」
「そう」
「怒られちゃったんだ」
「めちゃくちゃ、ね。店長怒るとマジでおっかないからさ。しかも発注ミスは本気でキレられる」
男は苦い顔で口にストローをもっていった。ずずず、と容器のなかで音がした。
「コンビニもなかなか大変だね」
「いろいろ任されるようになってくると面倒が増えるんだよ。オレももう店では古株でさ。ずっと同じところでやってるからなあ。いまさら違うところにいくのもなんだし」
「遊助くんは信頼されてるんだね」
「そんなことないよ。他に頼める奴がいないだけさ。オレだってほんとうはそこまでやりたくないのに。仕方がないからやってるんだけどさ、それで怒られる機会が前より増えてんだから、なんか、やってらんなくてさ」
「うんうん」
男は今にも泣きそうな横顔を見せていた。ぱぱあ、と甲高いクラクションの音が外で鳴っている。
「私は偉いと思うな。人のために行動できる人って。責任感が強くて、かっこいいと思うよ」
私は男の横顔を見つめて言った。ほっぺたに〝慰めてほしい〟と書いてあるようだった。
「⋯⋯優しいんだね、アユミは」
「当たり前のことを言っただけだよ」
自分でその方向にもっていってるではないか、と、私は内心笑ってしまった。けれどもこういう素直な男は私の大好物だった。
「やっぱり好きだわ、アユミのこと」
出た。この男の口からこれまでに何度、告白の言葉を聞いたことか。もはや男の口癖のようになってしまっている。
そもそもこの男の場合は告白から出会いが始まっていた。私が相手のことをまったく認識していない頃から、男は私への気持ちを一方的にたかぶらせていた。はっきりと意図があるときを除いて無愛想な私にとっては珍しい出来事だった。
男は時代に逆行するように手紙で私に告白をした。今の家に引っ越しをする前の最寄りのコンビニの店員だった男は、お会計を終えて私にレジ袋を渡すと、「これも受け取ってください」と、制服のポケットに入れてあった手紙を差し出した。おまけの景品みたいな渡し方をした男になんだか狡猾さを覚えたものの、これまでにないパターンにちょっとした面白みを感じた私は、何も言わずに素直にそれを受け取った。これはなんですか、困りますやめてください、その場で突っぱねてもよかったのだけど、あえてしばらく泳がせてみることにした。
それから買い物をするたび「返事を聞かせてもらえませんか」と何度か問われたものの、のらりくらりとはぐらかせたまま、引っ越しの前日を迎えた。そして私は店に出向き、満を持して男に「ごめんなさい」と伝えた。男の悶々とした表情をギリギリまで楽しもうと思ったのだ。
ところが男は、私の返事にがっかりするでもなく、ぱっと目を見開き「絶対に悪いことはしないのでずっと好きでいてもいいですか」と言ってきた。私がこの男に関心をもったのはそこからだった。