2022/07/02

作家として己の価値観を広げたい

 

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一度読んでみたかったマキャヴェリ「君主論」。評に違わず強烈な書物だった。

今が平和だからこそだけど、その歯に衣着せぬ物言いに、もはや読みながら笑えてきてしまう。ここまでハッキリと恐怖政治を推奨(本書の趣旨からすると進言)する思想も珍しい。その全体像が以下の一文を読むだけで想像できるはず。

〝ともかく、君主は、たとえ愛されていなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない(中公文庫:池田廉訳より引用)〟

書きながらまた笑ってしまった。なんて真っ直ぐな独裁思想なのだろう。

民から愛されること(好感度)などどうでもよく、恐怖の大王として君臨している必要があるのだという。これぞまさしくマキアヴェリズム。その後の王たちに強い影響を与えた書物となったのもうなずける。独裁者として歴史に汚名を刻まれるであろう行為を全面肯定してくれるのだから。

こういった偏向的な書物は、自身の価値観を広げるのに、またはバランスのとれた思想を構築するのに役立つ。

しっかりと読めば誰もが理解できるが、マキャヴェリの君主論は別に独裁政治を志向したものではない。そもそも君主論は元々書物として提示されたのではなく、ある一人の王に進言する手紙として生まれたものだったそう。当然、君主論というタイトルなど付されてはおらず、本国イタリアにて本文からこの過激な言葉がタイトルへと引用され本として刊行された。

当時のイタリアは、各地の王(貴族)や教皇が領土を保有するか王不在の共和国が点在していて、地図帳で見るあのキレイな長靴の型にはほど遠いバラバラな国だった。長靴のなかでは常時争いが絶えず、領土内で暮らす人々たちに安寧は長いこと訪れていなかった。侵攻・奪還の戦乱の世が何百年と続いていたのだ。

「どうせ争いはなくならない。だけど、その痛みを和らげることならできる」

そのような思考から、絶対君主による国の統一を望み、かの進言が一人の王になされたのではないかと想像される。そうしなければ無駄な争いがこの先も延々と繰り返されることが明らかだったからだろう。つまりは平和のためには恐怖政治で統一するしか仕方がない、という妥協の意味合いが多分に含まれているのだろうと思われる。

実際、君主論の論理は横暴ながらも終始一貫していて、過去を踏襲したうえで教訓を示そうとする姿勢が随所に見られる。また「より高尚な大義のために」という目的意識が随時垣間見られ、その目的にそぐわない、私欲のための独裁などはまったく奨めていない。その証拠に、上の引用文にはまだ続きがある。

〝──なお恨みを買わないことと、恐れられることとは、りっぱに両立しうる。これは、為政者が自分の市民や領民の財産、彼らの婦女子にさえ手をつけなければ、かならずできるのである。さらに、どうしても誰かの血を見る行動に行きつかざるをえないときは、適当な口実としかるべき動機があるときのみ、やるべきである〟

書いてあるのは至極当然のことだが、一方的に恐怖政治を推し進めようとしているのではないことが十分に窺える。恐怖を誇示するのはあくまで国の統一のためであり、ひいては農民たちの安寧を確保するため。そのための絶対君主の待望論なのだ。

長々と説明してしまった。

こういったいかにも偏向した思想であっても、その時代背景や意図なんかがわかると、それが世に提示された理由なんかも見えてくる。そしてまた同時に後の権力者たちによって歪められたであろうその実態も見えてくる。提言者が本当に云いたかったのはそういうことじゃないんだろうなあという。

あるいは当人が真に恐怖政治を望んでいたのだとしても、それが私利私欲のために提示されたものでないことは容易に想像がつく。きっとその当時は、そうするしか仕方がなかったのだ。どうせ実現されっこない理想にすがるのを辞め、目の前の現実に依拠することで、少しでも良い暮らしにしていこう。そんなふうに考えていたのではなかろうか。

そうやって当人の気持ちを斟酌することで「これが正義だ」と偏りがちな思想にバランスをもたらすことができる。逆の立場になって考えてみることで自身の価値観を見つめる良い機会を得る、といった感じだろうか。

とかく極端に考えがちな私のようなタイプには、このような熟考の機会が必要だったらしい。作家として客観的な視点をもつ。そういった意味でも、ここ最近の政治思想の探求衝動が生じているのかもしれない。

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