作家には厚顔無恥な態度も必要なのかも

 

この記事を書いている人 - WRITER -

その実が見えずにずっとモヤモヤしていて、けれども半分「きっとそうなのだろう」と感じ取っていた真理にある時到達し、「やっぱりそういうことか⋯⋯」と、どこか諦めにも近い思いを抱くことが過去に何度かありました。きっとそうなのだろう、のもう半分は「そうではないと言ってくれ!」という、まさにすがるような期待感があったのだと思います。

完璧主義であることの弊害は自分でも重々承知していて、この歳になるまでにその精密であまりにも小さい枠を随分と広げてきたつもりだったのですが、それでも生来の気質というものを完全に矯正するのは不可能みたいで、どうしても完成形を追い求めてしまうところが自分にはあります。とくに人とのコミュニケーションにおいては⋯⋯。

自分が創り出した作品は、読んだ人に漏れなく自身の想いを伝えられるものでありたいという思いがありました。⋯⋯いや、まだまだありました、などと言い切れるところまでの踏ん切りはついていません。その思いを簡単に捨てたくはないのですが、ただ、心のどこかで半分「それは無理な話だろう」とため息をついている自分もたしかにいました。むしろ、これまでの経験を踏まえれば、そちらの方が正しいことはうすうす分かっていました。要するに「妥協したくない!」といつまでもグズっている聞き分けのない自分がいた、というのがその実状でした。

万人(ばんにん)に分かってもらおうと考えるのは作家としてのエゴなのだろうか? 自分としては、それこそが提供の精神であると認識していたのですが、あるいは「分かってもらいたい!」という利己的な思いもたしかにあったのかもしれません。いや、それがまったくない作家などいないのではないだろうか? これほどに苦労して作品を生み出している以上、誰しもに絶対あるだろうと個人的には思います。それが作家を名乗っている自分の本音です。

しかしやはり、それは無理らしい。言葉を受け取った者と投げた者とのお互いの理解を完全に一致させるには、ひたすら投げた言葉の補足に終始しなければいけなくなる。ましてやそれが万人ということになれば、もはやそれは楽しい物語ではなくなり、不要な注意書きで埋め尽くされた今日の家庭用品の二の舞となってしまう。つまりは「誰一人として読まない」ということ。

相手に理解してもらおうとするのはとても大事な姿勢だけど、ある一定のラインを超えると、それは単に煩わしい態度でしかなくなり、相手を楽しませるどころか、むしろ不快な気持ちにさせる立ち振る舞いとなってしまう。たしかにそれを「思いやり」とは言えないかもしれない。たとえ本人に提供の気持ちがあったのだとしても、それを受け取る相手にとっては「独りよがり」に映っても致し方ないのかも。それはもう、不器用を通り越して、単なる頑固でしかないだろうから。

作家自身に伝えたい想いがあるのならば、時には『勇気』も必要になるのかもしれない。相手にどのようにとられたとしても、また本を通じた読者とのコミュニケーションにズレが生じる可能性があったとしても、それでも、最後まで一貫して自身のメッセージを堂々と書き上げる、その勇気。

自己満足が如く一心不乱に自身の頭の中を相手にこれでもかと見せつけるその厚顔無恥な態度が、作家を名乗る者には求められるのだと、今日ふと、そんな理解に至りました。「やっぱりそういうことか⋯⋯」という諦めにも近い、確かな納得の思いとともに⋯⋯。

この記事を書いている人 - WRITER -
 

Copyright© 売れっ子Kindle作家 大矢慎吾 , 2021 All Rights Reserved.