2022/10/07

作家は死ぬまで恥を晒し続ける存在

 

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かつて体験したことのない奇怪な季節の変わり目ぶりに翻弄され、ここ数日の間ずっと体調が芳しくない。

きっと私と同じような感覚を抱いている方もおられるはず。寒くなるなら寒くなる、であってくれ。気分屋に引き返してこないで、しかも湿気までをも連れてきて。この時期に蚊の羽音を耳にしたのは初めて。戸惑いの振り子に揺れる体が、困惑を通り越してもはや自棄の気持ちに傾きつつある。もうどうにでもしてくれといった具合に。

年々こうした変化に体が対応できなくなっていくのを痛切に感じる。やはり我々は消耗品に乗っているのだと。ゆえにそれに対抗する特段の対策を講じる必要があるのだと。

我々夫婦は、歩く。ただひたすらに。

この原始的な運動こそが持続可能(SDGs)な手段であり、また現代もっとも不足している要素であると思われて仕方がない。肉体的な活動面においても、陽光を浴びることでの精神の充足面においても。この地味な足運びこそが意外にも〝最大公約数〟的に機能するのではと体験してみて思う今日この頃。

昨日、ふとしたきっかけで自身の過去のブログを読んだ。ちょうど1年くらい前の記事だった。

部屋で一人、パソコンを前にしみじみと思った。人は1年でこれほど変われるものなんだなあと。

文章力うんぬん以前に、まずもって思想面の変化が顕著だった。

一言でいえば、あの頃の自分は気負い過ぎ。そんなに強い言葉で書いたら読んでる側も疲れちゃうよ。まったく身も蓋もない言い方をして。それがいいと思っていたんだろうけど。

根本的な姿勢は当初から依然として変わってはおらず、内容に関しては別に省みる気持ちを起こさせはしない。自身の想いを正直に表明する、いいじゃないか、それが作家としての信念なのだし。そのこと自体を恥じるのは逆にダサい。いいんだよ、多少尖っていたとしても、それくらい熱量に溢れている方が有望ではあるまいか。

ただし「言い方」である。その面はもっともっと勉強しないと伝わらないなあ。そう、伝えたいと思って書けば書くほど伝わらないもので、その気持ちはちゃんと保持したまま、表現の手段を知る努力をもっとしないと。でないと気持ちばかりが先行して思ったような効果を得られないことになる。それではいくら強い信念があったとしても難しい。君は「結果」を重視するのだろう?

パソコンの画面を見ながら、過去の自分にひとりごちる。ページを繰りながら口元に苦笑いが浮かぶ。天井を仰ぎ見て思わず嘆息してしまう場面も⋯⋯。

──しかし「恥ずかしい」という思いは微塵も生じなかった。

むしろ誇らしい気持ちで胸がいっぱいになった。変わらず明日からも続けていこうという希望に満ち満ちていた。

読んでみてけっきょく過去の自分から勇気を得たのだった。

 

 

我々はいつまでも〝途中〟を生きる。

悟りの境地を指南する宗教の教えや、人間的な成長を志向せよと促す社会規範から「完成」を志してしまいがちではあるが、そんなものを待っていたら何もできやしない。何も発言できやしないし、創作物を献上することなどできるわけがない。あるいはこの世を去る段になって初めてものが言えるといった話になる。その時分にそのための体力を持ち合わせているのかは甚だ疑問ではあるが。

どこまでいっても、どうせ途中。

5年後はこの記事を至らないと感じているだろう。10年後は5年後に記した記事を至らないと感じているだろう。そして50年後は自身の過去のすべての言葉を至らないと感じているだろう。あるいは死後の霊体が同じように感じているように。

恥かくことを怖がっていたら何もできない。何も言えないし、何も創れない。

かつて出だしから完成されていた人物などいたのだろうか? 伝記によれば釈迦やキリストですらもそうではなかったらしい。

変遷の感じられない創作者になど未だ出会った試しがない。そしてまた駄作の存在しない創作者にも。どちらも無い創作者は、格好をつけて中途で姿をくらましたか、もしくはケツをまくって創作活動から逃げ出したのだろう。

してみれば作家は、死ぬまで恥を晒し続ける存在だといえる。死ぬまで文章を人に献上し続ける以上、文字通り生き恥を晒すことになるからだ。

なるほど。だったら私にはピッタリではないか。

なにせ恥をかくことに対する耐性について云えば、他に類を見ない堅固たるものを誇るがゆえに。

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