先の見えないこの道を歩む理由

 

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数ヶ月ぶりにニオイの悩みについて問い合わせを受けました。もはや作家としての旗を高々と掲げている今、個人の大矢慎吾に対して相談をされることはほとんどなくなったので、随分と嬉しい気持ちを感じてしまいました。その勇気に感謝です。ありがとうございます。僕の生きる道、という好きなドラマで「頼られる幸福もあるんだよ」と言っていたその意味が分かりました。

『勇気』という、大人になればなるほど忘れてしまいやすく、そしてまたその力を軽んじてしまうものはない。と個人的には思います。感覚的には「夢」とか「希望」と同じようなカテゴリーに入れられて、口にした者たちを一笑に付すというのが、この社会の常ではないかと思います。いつまでもそんなものを追ってるんじゃないよ、という。

たしかにこのての精神論的なものが毛嫌いされるのはよくわかります。自分も大人たちから「気合いだ」とか「努力だ」などと散々ケツを叩かれながら育ってきたので。「気持ちが足らないからダメなんだよ!」と怒鳴られて説教をされる度に「そういう問題なのかな⋯⋯」と疑念を抱き、その気持ちを反骨心というエネルギーに変え、「自分は頭を使って人生を好転させよう」と自分なりに道を切り開いてきた経緯があります。

ただ、それでも『勇気』だけは決して手放してはいけないし、また使わないままにサビつかせてしまってはいけないと思っています。

なぜなら多くの場合、論理的な思考からは論理的な結果しか得ることができないからです。何かにチャレンジをする際、または身の丈をはるかに超える高い壁に遭遇した際、論理的な考えだけを拠り所にしていては、想定した範疇を超える結果を手にすることは難しいと思います。なにせ、論理的な行動によって起こるのは、論理的にあり得る結果で然るべきだからです。

ぶっきらぼうな言い方ですが、想定通りの人生を生きることの何が楽しいのでしょうか。そうした生き方を好む人を否定する気は全くありませんが、自分にはどうにも退屈に思えて仕方がありません。良いにつけ悪いにつけ、想像だにしていないことを体験させてくれるのが人生で、だからこそ生きるのは辛いのだけども面白いのだと、そう思っているからです。むしろ、多少散らかっているくらいが自分的にはちょうどいいです。〝色んなことをつまみ食いしてるなコイツ〟と人に思われるくらいで。

そうした生き方を世間では「社会不適合」と評するのだとしても、それが自身の望む道であるのなら、周りの視線など気にしている場合ではありません。認めさせるべき相手は、他人ではなく、ありのままの自分でいたいと願う自分自身だからです。

あるいは、そうした誰かの生き方が、誰かに『勇気』を提供できるのだとして、そしてまたそれがのちの誰かの人生に大きな影響を与えることになるのならば、自分が文章を綴っている意味は、きっとある。そのことを信じているからこそ、決してブレることなく、今日も先の見えないこの道を歩むことができています。

「絶対に自分がこの道を切り開いてやるのだ」と。

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