2022/09/23

写実主義の本質を掴みたい

 

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二人目の著名ロシア人作家の分析に入った。いずれもロシア文学黄金期に名を馳せた文豪である。

既に理解したこと、そして未だに掴み切れていないこと、現在これらが少しずつ浮き彫りになってきている。

分析に入る前から時代背景に関してはある程度の事前知識があった。19世紀当時のロシアの内政状態、お上より農奴解放令の宣言がなされ、自由へと求心する動きが国内で活発になっていたこと。

これはなにもロシアに限った話ではない。1789年のフランス革命以降、国家形成のうねりは各地で巻き起こっており、啓蒙思想が喧伝されるなか、民主主義が欧州各国で産声をあげたのが18〜19世紀の大陸の様子。産業革命によって資本家が台頭し、主要な産業が第一次から第二次へと移りつつあり、多くの国民の生活が百姓から勤め人へとその形態を変えようとしていたのがまさにこの時期。

時を少し遅れるが、日本でも19世紀後半、明治維新によって幕府が解体され、各地の藩が握っていた行政権を中央政府が一元管理することとなった。版籍奉還によって建前上、貴族・氏族の力は失われ、こちらでも民主主義の空気が国中を取り巻いていた。つまりは19世紀というのは、西欧から〝自由の風〟が東へ東へと煽動されていたと見ることができる。

だからこそロシア文学黄金期の作品には「貴族の戯れ」あるいは「農奴の哀愁」などが描かれているのだろうとある程度は推測が立っていて、同時並行的にロシア帝国の変遷をたどることによってこの事実は確認できていた。というわけで歴史観の方はもう十二分であると思われる。

分からないのが、写実主義の本質的なところ。

写実主義がありのままの現実を綴る文学(技法)であることなど知っている。そんなのはわざわざググるまでもないことで、なるだけ著者の感情を入れず史実の描写に終始すること、わかりやすくいえば限りなく三人称に徹することだというのは分かりきった話。

が、そんな額面通りの解釈には意味がない。そうではなく、「どのようにしてそれを駆使しているのか?」というところが分からなければ、真の意味で理解したことにはならない。

ハードボイルドを「淡々と綴る」と額面的に解釈し、修飾語を極限まで取っ払った乾いた文体で物語を綴ったならば、まず十中八九つまらない小説が誕生する。無味無臭、読んでいても何一つ心に残るもののない平坦な作品に仕上がる。それはいうまでもなく修辞に欠ける小説というのは、いかにも格調に乏しくなるからだ。格調に乏しい小説は教養に欠ける小説と同様、なんだか陳腐に感じてしまうのが通例。

ハードボイルドな文体は、それを「どの題材で駆使するのか?」というのが非常に大きなポイントであるように私は感じる。むしろその構成の時点で万事が決まるのではなかろうか。

もはや今ではハードボイルド=無頼漢な主人公の物語、といった様相を呈しており、結果、題材の選択を誤ることはほとんどなくなっている。つまりグロい、エグい、バイオレンスな物語を描くにあたっては多くがハードボイルドな文体で描写されるため、題材の選択ミス問題はほぼ生じなくなっている。

しかしそれをもってハードボイルドを本質的に理解していることにはならない。他のジャンルの物語をハードボイルドに綴り、なおかつその文体で作品を成立させてこそ、初めてハードボイルドを「駆使している」ということになるのだと私は思う。

写実主義もこれと同様。写実主義をただありのままに綴るものだと額面的に理解していても何の意味もない。そうではなく、それをどのように駆使しているのか? という本質を掴まなければ、やはり件を習得したことにはならないのだ。

今のところぼんやりと掴めているのは、写実主義というのは自身の思想を隠そうとする技巧である、ということ。

おそらく写実主義にて綴ることによって多くの現実を浮き彫りにし、あたかも「この作家はそれをうまく描き出している」という印象を読み手に与えておいて、実のところは主題をうまくその他大勢に潜り込ませている、といった手法ではないかと漠然と想像している。あくまで想像の域でしかない、いたずらに文が散らかっていて申し訳ない。思考を吐き出すようにとにかく書いてみた次第。

掴めそうで⋯⋯やはりまだ掴めない。引き続き粘り強く分析にあたる所存。

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