2022/09/30

写実主義はその文脈によって異なる

 

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読書(酷書)の日々が続く。この段において〝3年間の枷〟から解放されていることに心から安堵する。とても毎日ブログを綴っている場合ではない。

写実主義の探究は、ロシア文学黄金期の三名の作家に始まり、ついにはフランス人作家にまで至る始末。まったく、どこまで追いかけていけば掴めるのであろうか。

いよいよ小説を読むのが嫌になってきた。とくにフランスの作品は婉曲表現があまりに過剰ですこぶる面倒くさい。かの国の文学は「言葉そのもの」を楽しんでいることがありありと窺われるが、私自身は「どう言うか?」よりも「何を言うか?」の方に重きを置く。どちらも重要で、どちらにも精通している必要があるものの、どう言うかに偏向している作品は往々にして円滑な読書を妨げられるため、個人的にはあまり好まない。

ただ酷書の甲斐もあってか、件の輪郭も少しずつ浮き彫りになってきた。

写実主義は、その『文脈』によって微妙に異なる。

私はロシア文学黄金期を通じて写実主義に出会った。しかし写実主義の発祥はフランスで、両者は年代が少しズレている。前者が1850〜70年代なのに対し、後者は1830後半〜50年代に該当する。当然のごとく後者はすべてに先行していて、前者は後発組なのだという前提に立たなければ実像は掴めない。

写実主義はロマン主義に対するアンチテーゼとして生まれてきた。そしてロマン主義はというと、古典主義に対するアンチテーゼとして生まれてきた。

古典主義は道徳的・教義的な思想を帯びたもので、要するにキリスト教(カトリック)や古由来の伝統を帯びた作品を意味する。それに対するアンチテーゼということはすなわち、理性的ではない自由な、幸福と理想に溢れた夢のような思想を展開させた作品を意味する(多少違っても大してどうでもいい)。ロマン主義さえも〝反発〟の姿勢として誕生したということがここでは重要。

ということはそのロマン主義に対する反発は、理想や夢のような思想に対する反発、つまりは『現実』として発現されることとなる。すなわち写実主義とは現実を魅せつける思想ということなのだ。

フランスにあっては、まさしく前述の形式そのままとなって表れた模様。つまりロマンティックではない凄惨な物語を描写することによって写実主義は提言された。フローベールのポヴァリー夫人という作品において、姦通を繰り返した末に自殺するロマン主義者の婦人が描かれていることに顕著に表れている。破滅や退廃の美しさを描く文学に近いか。まさしく芸術の都・パリといった感じ。

ところが、どうやらロシアではこの限りではない模様。後発組にあっては、察するに〝その国としての写実主義〟が展開されているようなのだ。

云わずもがなロシアとフランスではお国柄がまったく違う。しかもこの当時は帝政ロシア、農奴解放令を皮切りに伝統的な生活スタイルを刷新し資本主義的な西欧化によって近代国家へと転身すべく国全体が浮き足だっており、伝統と先進がせめぎ合いを起こし火花を散らせていた。

そのために〝反発〟は発祥国フランスそのままの形としては表れなかったよう。ロシアには、ロシア文学としてのロマン主義に対する反発、つまりはロシア的な写実主義が提言されていたと見るのが、件の探究における正確な見方であるっぽい。っぽい、はまだ確信には至っていない様を示す。しかし限りなく真実に近いのではと個人的には見ている。

少なくとも発祥国フランス文学の写実主義とロシア文学の写実主義は別物として見なければいけない。というところまでは確実に掴めた。(フランス文学における写実主義の精密な探究は時間的に断念した。よって上記は多分に推量を含んでいる)

 

文章表現としての写実主義も一様には表れていない。年代による変遷、作家の試行錯誤によって進化していったからだろう。

そもそも写実主義は、それを駆使することを意図した作家の姿勢として読み取るべきものだと私は思う。その作家がどのようにして写実主義を表現しようとしたのか? それを作品から読み取ろうとする読み手側の姿勢が求められるものなのではないか。つまりそれは『文脈』だという話になる。

もしも形式上の最低限のルールがあるとすれば、それは「視点を一つに固定しない」ということになるだろう。

写実主義の小説はまずもって三人称であり、昨今の小説のような三人称一視点の手法はとられない。そのために主人公の存在が曖昧になりがちで(それも意図)、おのずと主語の頻発が地の文に如実に表れてくる。視点が主人公に固定されていないのがその原因。ゆえに「大矢は」「彼は」「作家は」「個人作家は」「生真面目な中年男性は」「この放蕩者は」などと多様な呼称が使われることが多く、翻訳小説特有の(あれ、これ誰だっけ?)現象がまさしく起こりやすい。

ということは、杓子定規的に小説で写実主義を駆使したなら、現代的にはまさしく「登場人物にまったく感情移入できなかった」といったレビューを付されることだろう。仮にそれを含有することを意図していなくとも⋯⋯。

探究はまだまだ続く。明日からはロシア的な写実主義を探究していく所存。

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