創作家にとってのアイデンティティの確立とは
きっかけは例によって直感だった。いまの自分にとってこの知識が必要に違いない、という。
アイデンティティは「自我同一性」または「自己同一性」と訳され、1950年代にエリク・H・エリクソンによって提唱されるや、当時の心理療法や教育の現場におおきな影響をもたらしたらしい。もともとの概念はかなり難解だが時とともに簡略化されていき、今では〝自分は何者であるか?〟という問いに決着をつけることを「アイデンティティの確立」として広く認識されているよう。
アイデンティティには『自我アイデンティティ』と『集団アイデンティティ』という二つの要素がある。自我アイデンティティ=自分、集団アイデンティティ=社会、として考えるとコトはわかりやすい。
人は学生生活をおえて社会にでると社会人としての自分の役割を見出そうとする。自分は何をして社会の役に立つのか? 何をすることが自分の役目であるのか? ほとんどの人が会社に属することでその問いに答えを見出していく。
このときにまず考えるのが〝自分は何が得意なのか?〟という自分自身に対する認識。人は学生時代を通して他者との比較によって自己を分析し、自分の考える自分像というものを漠然と作り出す。それが社会にでる際の指針となり、そしてまたアイデンティティ確立へと向かう最初のきっかけとなる。
現実の社会においてもそうであるように、その確立にあたっては他者からの承認が不可欠となる。たとえ自分が「オレはこういう人間だ」と思っていても、他者からそうであると認めてもらわないことには確立には至らない。なぜならアイデンティティは自我アイデンティティと集団アイデンティの『同一性』をもって確立を見るからだ。
例えば、〝自分は何者であるか?〟という問いには自分だけで答えることができる。誰にも認められずとも自分が自分を確信していさえすればそれでいいからだ。けれどもエリクソンの提唱した概念はその状態を想定してはいない。おそらくその状態が健全ではないからだろう。もともとこの概念は臨床の現場から生まれたものなので精神的な〝分裂〟に対する心理療法としての性格を有している。そのために『自分が考える自分と、他者が考える自分が、一致している状態』として確立を定義するのがより正確だといえる。
いずれにしても、アイデンティティを確立するには他者からの承認が必要となり、そのために人は社会という枠組みに自分を適応させるべく苦闘することになる。この思考プロセスは「社会への帰属意識をもつ」などといわれる。
この帰属意識の考え方が、まさに創作家にとっての「売れる」に対する考え方と似ていると私は思った。
自我アイデンティティを『作品』、集団アイデンティティを『市場』とすれば、作品を市場に適応させていくプロセスが確立、もしくは同一性へのプロセスとなり、それがそのまま社会における自分の役割を見出すことにもつながる。だからこそこのプロセスへの臨み方、心構えなどがわかれば、自身の創作活動に何かしら活かせるのではないかと思ったのだ。
他の創作家がどうであるかは知らないけれど、私にとってのアイデンティティの確立は「売れる」ということを指す。
あまりにも道徳的なこの国では、売れる(つまりはお金持ちになる、成功者になる)ということに対する嫌悪感が、大衆の意識に潜在的にあるものと個人的には思っている。端的にいえば「お金持ち=悪いことをしている」「売れている創作家=大衆に媚びている」といった先入観が人々のあいだに内在されているということ。
だからこそ私のような作家が「売れたい」などと言えば、はた目からは「大衆に媚びたダサい作家だ」と見られることは重々承知していて、それを踏まえてなお〝売れっ子作家〟などと名乗っている次第。本人が何を志しているのかがわからなければ応援する側も困るだろうと思うから。
私は現象に重きを置く。この現象世界を生きているなかで社会に一体どんな現象を巻き起こしたのか? それが私が生きるうえでの興味であり、それが私にとっての指標だ。つまりは起こった現象をもって結果(人生)を評価するということ。
それが一体どういう意味をもつのか? などという点はどうでもよく、いや、そんなものは受け手が如何ようにも評価することであって、それを考えることにはあまり意味がないと思っている。それは自分ではコントロールできないというのもあるし、また生み出した者が固定させるべきではないと思っているから。それは、私にとっては「私物化」を意味し、私にとっての〝ダサい作家〟を意味する。
その現象の実態など関係なく、「売れた」ということは人々がそれを求めていたということだ。あまりにも単純だがそれが本質で、むしろそれ以外のことを考える必要はない。売れっ子作家=社会から必要とされている人間である。
そうなるためには出版市場から認められなければいけない。認められるためには、市場のことをよく知らないといけないし、知ったうえでそこに作品を適応させていかなければいけない。市場というのは文化であって、今日まで積み上げてきた歴史があるからだ。認めてもらうには過去の延長線上に自分を位置付けなければいけない。それは決して「媚びる」などといった安直な態度ではなく(むしろそういう態度の人間はうまくいかないと思う)、自身の作品を一定程度の形式に沿わせていくことを意味する。そうすることで受け手に過去を踏襲していることを伝達することができ、そこに立ってようやく新たな歴史の誕生を示すことができるからだ。
<アイデンティティとライフサイクル>
上記の本を熟読してみたものの、残念ながら社会への帰属にむけた臨み方、考え方は記されていなかった。それはほとんど心理療法に立脚した説明だった。勉強にはなったものの直接的な学びは得られなかった。
けれども重要なキーワードを得た。それは、自我アイデンティティと集団アイデンティティの同一性にあたっては『イデオロギー』が求められる、ということだ。
これは信念や目標といったものよりももっと大きなものを指していると思われる。政治の文脈でいうなら思想形態、人生訓でいうなら哲学的根拠。ただ一つの想いや考えではなく、その者のもつ包括的な観念を意味している。要するに、その者の人間性そのものを指しているといって差し支えないだろう。
この記述に出会ったとき、私のなかである一つの確信を得た。創作家にとってのアイデンティティの確立とはすなわち『プレゼンテーション』なのだと。
「帰属」という言葉から「適応」という態度を連想しがちだが、それはきっと形式の面の話でしかない。体裁といってもよい。生み出す作品の体裁に過去への踏襲性をもたせるということ。
けれども表現する自身の世界観については、受け手に対するプレゼンテーションなのだ。それはイデオロギーのプレゼンテーションといってもいいだろう。それをして初めて受け手からの承認を得ることができる。
とどのつまり創作家にとってのアイデンティティの確立とは、イデオロギーを存分に帯びた作品のプレゼンテーションである。私はそのように結論づけた。
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