2021/08/23

努力はシチュエーションが大事

 

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「努力」について。

近頃は、努力できるのはすごいことだと評され、「努力の才能」などと数多ある才能の一つとして賞賛されることもある、この努力という概念。

たしかに努力ができることは、自分の掲げた目的を達するためには必要なことだと思う。むしろ努力をせずに目的を達することなどできないだろう。それが可能ならば、目指しているのは目的地ではなく単なる”行き先”に過ぎないといえる。

ただ、努力ができることをそのまま一つの才能と認識するのは間違いだと僕は思う。

なぜなら努力は、その『対象』とがセットになって、初めて一つの才能として実行力を有するからだ。

 

 

僕は、自分が努力できる人間だということを知っている。

そしてその努力が、どのようなシチュエーションにおいて発揮されるのかを、自分自身で熟知している。

例えば、両親のために何かを成し遂げる時。

自分が何か世間的な成功を手にすることで両親を喜ばせることができるという場面。あるいは困っている両親の問題を自分が代わりに解決してやろうとする場面。

そのようなシチュエーションにおいては、僕は、自分でも信じられないほどの努力をそれに費やすことができる。

あとは、困っている相手を助けようとする時。

知り合った相手が不遇の目に遭っていて、自分のサポートによってその暗闇から救い出すことができるのでは、と感じた場面。あるいは普段からあまり他力に頼らないような相手が、面と向かって自分に「助けてほしい」と訴えてきた場面。

そのようなシチュエーションに遭遇すると、相手の笑顔に出会うまであらゆる障害を蹴散らしてしまう、文字通りの底知れぬ努力を発揮することができる。

これまでに自分が驚異の成果を手にした時というのは、上記のようなシチュエーションにあった。きっとこれからもそうなのだろうと思っている。

そして上記とは反対に、まったく努力ができないシチュエーションというのも、熟知している。

もっともダメなのは自分のためだけに目的を達しようとする場面。あとは人から与えられた目標を達しようとする場面。それと、目的を達するまでのプロセスについて罪悪感を感じている場面など。

これらのシチュエーションにおいては、自身に備わっているはずの努力という才能が、まったくもって発揮できない。

本当に情けないほどだ。人に大口を叩いて「俺はやってやるぞ!」などと言っておきながら、机に座り一度も教科書を開くことなくそのままうっぷして寝てしまう。もしくは無駄に掃除をし始めたりだとか。まさに典型的な勉強嫌いの学生のそれとなってしまうのである。

つまり自分の場合は、自分の気持ちと、自分以外の何かがセットになって、初めて努力をすることができる。ということだ。

 

 

努力の才能というものは存在する。

けれども努力は、その対象とがセットになって初めて、実行力を有するもの。

そう考えれば、自分の対象を理解していないだけで、本当は皆んな、努力ができる人ばかりなのではなかろうか?

個人的には、そんなふうに思っている。

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