2022/08/10

古典文学の探究・海外編

 

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本日より海外の文学作品の庭に足を踏み入れた。古典文学の探究・海外編といったところか。

従前の不安がさっそく的中。著名な作品において中途の離脱を余儀なくされた。読書中に忍耐の限界を迎えてしまったために。

ぶっきらぼうに言ってしまうと、翻訳小説の文章は、まどろっこしい。

なにをそんなに婉曲に語る必要があるのか。どうしてそこまで比喩を多用したがるのか。

抽象性によって美を描くのはわかる。たしかに文章は、語彙による修飾や表現の仕方如何によって芸術にも成り得る。さながら絵画の如く、繊細かつ大胆な感性の放出、緻密かつ理路整然とした理性の設計によって、単なる読書体験を壮麗な世界へと誘うアートにまで昇華させる、といった文学志向には私自身も賛同できる。言わずもがなその点が作家の腕の見せ所だろう。

ただ、〝やりすぎ〟はいかがなものか。

あくまで小説は文章を用いた伝達手段。文章とは「言語」を文語化したものであり、「言語」とは相手に自分の意志を伝えるための手段。つまりは読み手に伝わってこそ意味を成すものだということ。いたずらに回りくどく語ったり、過剰な比喩を用いて率直な言及を避けようとする伝達態度は、話を聞こうと身構えるこちら側をすこぶる疲れさせる。

端的に言えば、面倒くさいのだ。やたらと長い一文。いちいち脇にそれて本筋が見えない語り口。いい加減、付き合い切れなくなってくる。読解する側の苦心も考慮に入れよ、と。

なるほど文章に触れる機会に乏しくなった現代人の感覚で見てもらっては困る。ひと昔前は大衆自身の言語レベルは今以上に高く極上なる文章表現が小説に求められたのだ。それゆえのまどろっこしさなのだ、君の読解能力の問題なのだ。──その反論は至極尤もだとは思う。たしかに両親世代が綴る文章は現代人よりも格段に修辞に富んだ表現が交わされる。さらに時代を遡って文章娯楽が至上であった時代ならば更なる乖離が生じるだろう。

だが、それでも読みづらい文章であることに変わりはない。少なくとも日本語の小説ではそういった弊害は感じない。古典文学の読書であっても十分に楽しめる。旧仮名づかい等、諸々の変化が修正されていれば読むのに不都合は生じない。

そう、要するに問題は、外国語による小説なのだ。読書にあたってなんともいえない煩わしさに蝕まれる。外国語を翻訳した表現はとかくまどろっこしい。外国人へのインタビューなどで字幕を読んでいるといかにもな冗長表現がなされているもの。いちいち鼻につく言い回しをするではないかと。

──ここまで述べてきてわかった。どうやら私は翻訳小説が嫌いなようだ。ヘミングウェイなどの乾いた文体で綴る一部の作家を除いて。

果たしてこの庭にいつまで滞在し続けることができるであろう。率直に言って自信がない。ドストエフスキーとか、最後まで読んでいられるだろうか⋯⋯。

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