2021/08/23

命に危機が迫ることで、見えるもの

 

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自分の知人に何人か、過去に大病を患い、生死の境をさまよった経験のある人がいます。半年近く入院するだとか、5時間以上にもわたる大手術を受けたことがあるだとか。お医者さんが家族に「一応の覚悟をしておいて下さい」と告げるような状況だったらしい。

そのような、生きるか死ぬかの瀬戸際を経験した人たちは、「本当に自分のやりたいことをやった方がいいよ」と誰もが口を揃えて言います。

どうしてそう思うのか、と尋ねるのは野暮かもしれませんが、その答えは「目を覚ました時にそう思った」と、これも一様のものでした。実際に死の淵に立っていた人たちの言葉なので、さすがにちょっと説得力が違うな、と感じたものです。

死が身近にまで迫った時、あるいは死を受け入れた時に、初めて重要なことが見えてくるのかもしれない。そんなことを感じました。

 

 

自分の健康を害したり、精神を患ったりすると、日常から外れた生活を体験します。

目覚ましで起きて、ご飯を食べて、歯磨きをして、着替えて電車に乗り、会社に着いて仕事をこなす。この一連の社会生活とは離れた日々が始まります。

まさに病院のベッドから客観的に社会を眺めることになるわけですが、僕の場合は、一番最初にこう思いました。

「ああ、なんて楽なんだ」

ふかふかのベッドがあまりに気持ちよく、自然に目を覚ますことがあまりにも心地よくて、心から安堵の気持ちを感じました。まるで誰かに守られているような感覚があった。

「別にいいんだよ」と、許可を与えてもらった気がした。

それは涙が出るほど温かく、優しいものでした。

 

 

ただ、そういう気持ちも、時が立てば消えていきます。家族への感謝とか、人のありがたみとかも、別に当たり前になってくる。感動なんて数日経てばどこかに消え去ってしまう。

結局のところ、人は慣れてしまうみたいです。どんな状況にあったとしても。

だからこそ、死の淵で感じた事とか、ドロップアウトして感じた気持ちとか、その一瞬の感覚にどれだけの価値があるのか、と思います。

 

 

僕たちは日々、間近ではないほどの距離で、死の淵を体験しています。

その距離は人によって違うと思いますが、誰もが一度は、その可能性をかなり間近にまで感じたはず。

その一瞬で感じた気持ちを覚えているだろうか?

その刹那に自分が思い描いた人生を覚えているだろうか?

僕は、今でもその気持ちを覚えている。

そして、その気持ちに従って、今日も作家をやっている。

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