2023/08/16
哲学的な死の解釈
生と死は表裏一体、死があるからこそ生があり、死が無いとすれば生という概念そのものがなくなる。これは一般的な考え方であり、むしろ事実でしかないだろうと一笑に付す人もいるかもしれない。
死が我々にもたらすものは「有限性」。人生は限りあるもので永遠に続くわけではない、その事実が人生というものに価値を付与し、日々過ぎていく当たり前の生活に尊さを感じさせる。◯◯がそれを意図したのかどうかはわからないけれど、終わりが設けられているおかげで我々はやる気を喚起させられている。もしも死がなければ毎日はどうでもよく、どうにもくだらないものになってしまっていたかもしれない。そういう意味では〝表裏一体の思想〟は啓発的な側面をもっているといえるだろう。
事実、ドイツのある哲学者は存在論において「我々、存在(現存在)は死を前提して生を過ごすことにより、この世界に実存する」という主張を述べた。
我々のまわりには事物や他者のほかに、決して実態を掴むことのできない〝世間〟というものがあって、放っておいたらおのずとその世間というものに埋没(頽落)してしまう。我々はそういった習性をもった存在であるらしい。そうなるのは「不安」や「恐怖」の仕業。死を実感することは、あるいは生と真剣に向き合うことは、不安や恐怖をすこぶる呼び起こす契機となるために、我々はその苦しみから逃れようと存在から背離し、世間へと混合する。そうして安心という名の弱酸性のあたたかい溶解液に身を浸して日々を過ごすことになるのだそうだ。
ところが我々は、決して頽落することの負い目から逃れることはできない。なぜなら各々の存在には「良心」が備わっており、良心からの呼びかけ、その声を無視して生きていくことはできないから。「関心」というわれわれ存在の根源的要素がおのずと体験を志向させてしまう。負い目は、頽落することに対する負い目なのではなく、体験を志向するおのれの気持ちを無視しようとする内側に対する負い目なのだ。
不安や恐怖と真っ向から向き合い、──運命を自覚する、運命を持つ、運命に向かって身を投げる。先駆しつつ己のうちに死の威力を高めるとき、現存在は死に向かって打ち開かれて自由になり、その有限的自由にこもるおのれの超力において自己を了解し、目の前の瞬間において実存する。──引用したこの詩的な文章からもわかるようにやはりどこか精神論のような雰囲気が滲み出ている。このように死がもたらす有限性というのは、生に対してカンフル剤の役割を果たしているのだといえる。
たしかに死がもたらす有限性によって生が喚起されるのは間違いない。〝自分はいつか死ぬんだ〟そう思うだけで今日一日を目一杯生きなきゃいけないという気持ちになってくる。
ただ、死を訪れる期限として決意し、その有限性を前提に意味づけをしていくと、生というものが歪曲されてしまう可能性もある。
例えば、あとどれくらい生きられるのかはわからないけれども、とりあえず「死ぬまでに●●を達成する」といった具体的な目標を設定して生に意味づけをした場合に、達成されればもちろん万々歳だけれど、もしもその中途で死が訪れたならそれまでの生の意味はどういう解釈になるのだろうか? 成功の達成感も失敗の悔しさもない、いわば不透明な生を体験したことになる。
あるいはこう考えてもいい。いつ訪れるかはわからないけどいつかは絶対に死ぬのだから死を前提とした目標を設定しなければいけない、そうでなければ生に意味づけをすることができない。などと考えた場合に、いつなのかわからない期限を前提とした目標など立てることができるのだろうか? よしんば「とりあえず直近ではないだろう」といった楽観のもとに短期的な目標を設定したとして、そのようにして生きた日々は果たしておのれの生に意味づけを付与できるような体験であるのだろうか? もしくは目標を設定してそれを達成しきったにも関わらず一向に死がやってこなかった場合に(思ったより生きてしまった)、いたずらに過ぎゆくその生とは一体どう向き合っていけばいいのだろうか? 目標がなければ生に意味はないのだろうか? 意味がなければ生に意味はないのだろうか?
死はたしかに避けられない運命ではある。けれども、死による有限性をもとにして生に意味づけをするのは、ちょっと無理がある。なにせそれは不意にやってくる事故みたいなもので、心構え(前提)をしたところでその訪れの時機を我々にはどうしようもできないからだ。
じゃあ死とは一体なんなのか? といった問いに対して、フランスの哲学者はこういった。「要するに、単なる事故です」。文字通り死とは不意にやってくる事故であって、それを前提に生に意味づけを付与すればそれはほとんど徒労に終わる。失望に帰する。あくまでもそれは存在に与えられた制限(制限には他者の存在などが含まれる)の一つに過ぎないのだ、と。
我々は死がなければ生に意味づけを付与することができないのだろうか? 死がなければ生に価値はないのだろうか? この世界に存在しているという目の前の現実に対して、◯◯から「いつか消えるんだぞ」とケツを叩かれなければ、我々はこの体験に意味づけをすることができないのだろうか?
──人間存在にとって「ある」ことは「為す」ことに帰着する。人間存在は、まずはじめに存在して、しかるのちに行動するのではない。人間存在にとっては、存在するとは行動することであり、行動するのをやめることは、存在するのをやめることである。
世界はわれわれの諸行為をとおして顕示される。自由とは、自己の存在の選択であって、自己の存在の根拠ではない。だからこそ自分で自分に自己の動機を課するのであるから、それはまさしく不条理である。──
もともと意味なんてものはない。ただ現象があって、そこに存在しているというだけの話。なぜなの? どうしてなの? そんな問いかけに教示が与えられることなどない。なぜなら意味なんてものはハナから無いから。◯◯が存在するかしないかという話ではなく、意味が存在しないという話。
けれども我々にはあらゆるものが与えられている。用具、他者、そして死。それらの制限された舞台に立ち我々は生のダンスを踊る。踊らないことは存在の放棄であり、自己欺瞞でもある。してみたところでどのみち踊ることへの関心・志向から逃れることはできないのだけれど。
いずれにしてもそれら制限ある自由をすべて飲み込み、受け入れ、この世界において日々為すことによって、我々は生に意味づけをする。そうした時にこそ、我々は、この世界に実存する。
──死、だからこその有限性ではない。私が私をつくるならば、私が私に対自するならば、私が私の存在に意味づけをするならば、私は私を有限ならしめる。──
つまりは生に意味づけをするとき、我々はこの世界で有限な存在に『なれる』のだという。
キレイゴトが嫌いな自分にとっては、上記の論拠はいかにも腑に落ちた。そうだ、ただの精神論に帰着するのはあまり好まない。たとえ耳障りのよくない解釈であっても、受け入れ難い真理であっても、まずは受け入れたうえで自分なりの向き合い方を模索していきたい。安易にポジティブに志向することを否定するわけではないし、むしろそれが可能なのだったらそうするのが一番いいだろうと思うけれど、自分にはできない。それは自分に嘘をつくことで、自分をごまかすことになるから。
私は不都合な真実ともすべて向き合ったうえで生き方を模索していきたい。なんらかの光を見出していきたい。だから過去に人からネガティブだと言われる度に「むしろポジティブだろう」と内心思っていた。
なんにしても、死のことなんて考えても仕方がないのだそう。だから人生設計など考える気にもならず、「関心」に向かって目の前の現実を生きているのかと、なんだか合点がいった気がした。
関連記事 - Related Posts -
最新記事 - New Posts -
-
2023/09/23
-
スピリチュアルとは極端な性格のものではないはず
-
2023/09/23
-
自己啓発本は利用すればいいと思う
-
2023/09/18
-
過剰に適応しようと躍起になるのも、どこか醜い
-
2023/09/18
-
潔癖なまでの「自分らしく」は危ないのかも