問題から目を背ける勇気

 

この記事を書いている人 - WRITER -

自身がやりたいと思う道にまっすぐ進むために会社員を辞めた2020年10月。あれから既に1年が過ぎ、わずかな貯蓄と妻の多大な理解と協力のおかげで、幸せなことに、作家業に専念できている。処女作を生み出すための修練に打ち込むことができている。

ただ、振り返るとその道は決して平坦ではなかった。言わずもがな夫婦喧嘩はいくつも経てきたし、人との交流はほぼ断絶状態になっている。執筆の不安から精神的にも追い込まれることがしょっちゅうあった。自分が招いたことだから当然、と、そんなこと分かり切ってはいても、それでも自分に都合よく憤りや憂いを感じてしまうのが人間なのではないでしょうか。少なくとも自分は、自分自身の身勝手な一面に何度となく直面させられ、人がいかに傲慢であるかを否応なく思い知らされました。

そのようにして揺さぶられる感情のなかでも、もっとも不安を掻き立てられるのは、やはりお金の問題です。お金の問題だけはもう、この貨幣社会を生きる我々にとっては切っても切れない問題ですね。とくに「自分の思うように生きたい」などと己の生き方を貫こうとする者にとっては、決して無視することのできない問題だと思います。一度はそれとしっかり向き合わないことには先に進めない。

目下の不安を解消するには働きに出れば済む話。しかしやりたいことに専念できている状態と、そうでない状態とでは、自身の肉体にかかる負担は全然違います。体力面でもそうだし、精神面でも。

社会には情熱の炎を吹き消す〝要素〟がたくさん存在していて、働きに出ていると、もっぱらそれらから身を呈して台座の炎を守ることに心身をすり減らされます。頭を悩まされます。あるいはやるべき〝コト〟よりも、死守する方に注力しなければならないかもしれません。

対して、部屋に一人こもってコトと向き合っていると、それらの外的要因に頭を悩まされる機会はかなり減少します。労力をすべて目の前のコトに費やすことができます。到達までのスピードが早くなるのは言うまでもありません。そのため、目の前のコト以外にエネルギーを消費するのは、完全なる〝遠回り〟と言わざるを得ません。

ということはつまり、懸念材料は外部にあるのか? ⋯⋯などと考えてしまいがちだけど、それはたぶん違う。

問題は自分の内側にある。当初に掲げた『勇気』をもち続けられるかどうか。すべてはその一点に尽きる。

不安も恐怖も、そのすべての原因を完璧に取り除くことは不可能。たとえお金の問題が随分と解消されようが、潜在的な問題は他にいくつもある。人は自分に都合よく考えるために想像もしていないけど。

いつだって事故に遭って体が動かなくなる危険性は存在している。今日も道には車がびゅんびゅんと走っているのだから。

体に腫瘍が見つかるかもしれない。内蔵器官に異常が生じるかもしれない。人間の体は所詮消耗品と大差はないのだから。その機能に劣化が見られる方が自然と言ってもいい。

⋯⋯と、これら潜在的な問題は、得てして〝恐怖の妄想〟には浮かんでこない。頭の中で考えるのは、だいたい貯金が底を尽きるかもしれないとか、給料を減らされるかもしれないとか、そんな妄想ばかり。なにせそちらの方がいくらか身近で、現実的な問題だから。

問題なんて、人生には常に内在している。「健康のリスク」。健康であることが当たり前のうちは何も懸念を抱かないけれど、それは確実に、絶対的に、生きる上での懸念材料として誰もが抱えている。それが表層化しないうちはひたすらに盲目だけど。自分に限っては大丈夫だろうと思っているのかもしれない。まさに、傲慢。

道すがら生じる問題なんて、その都度いちいち解消する必要はないのかもしれない。そこに目を向けても仕方がないのかもしれない。どうあっても、人は常に問題を抱えて生きているのだから。

問題から目を背ける勇気。

本来は「非常識だろ!」などと糾弾されてしまうような姿勢も、時には必要になってくるのかもしれない。そういう形の勇気だって、あるのかも。

この記事を書いている人 - WRITER -
 

Copyright© 売れっ子Kindle作家 大矢慎吾 , 2022 All Rights Reserved.