大きな一歩を確信

 

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思うことがあって、とある本を読んでいます。長編のシリーズもの。普段からあまり本を読むことのない自分にとっては稀有な行動です。

初めて小説というものを執筆して以来、ずっと拭えない違和感がありました。何かがおかしい、何かがズレている、と。そうした違和感は、自分の認識が実態とは異なっている場合に生じます。いわば、自分が何か間違っている時に覚える感覚です。あくまで感覚的なものなので論理的に説明するのはちょっと難しいですが。

ただ創作家にとって、こうした感覚はとても重要なものだと思っています。創作物の全体像はイメージで、そしてその細部は感覚で創り上げていくものだと思うので。形無きものを形にするには自身の感覚を頼りにするしかありません。

その感覚が発していた「間違っている」というシグナル。それは、〝映像としての面白さ〟と〝文章としての面白さ〟に関する誤解でした。

自分は、脳裏に浮かぶ映像を拠り所にして作品を創り上げるタイプです。

まずはイメージありき。イメージから想起される映像を頭に流し、その映像を忠実に文章として書き起こすことによって、物語を綴っていきます。いわば映像先行型とでも言うのか、文章は、自分にとっての「出口」を意味します。まさに頭の中で整理された思考を言葉にするのか、文章に起こすのか、その違いともいえるかもしれません。文章は出来上がったものをただ具現化させただけに過ぎない。

他の作家の方と話したことがないのでなんとも言えませんが、もしかするとそれは、あまり小説家気質ではないのかもしれません。おそらく優れた文章家であれば、頭に言葉がポンポンポンと次から次へと浮かぶはずで、むしろ創作活動は、それを取捨選択するだけの作業であるかものかもしれない。そんなふうに思えてならないからです。そういった人たちはきっと文章先行型なのだろうと思います。

ただ自身の資質を嘆いても意味はなく、今は映像先行型である自分を受け入れたうえで、それを活用した小説を生み出していこうと腹を括っているのですが、ただ、上記の誤解に気がつく今日に至り、ようやくその弊害が理解できました。つまり、映像としての面白さと、文章としての面白さは、その〝質が違う〟ということです。

映像として面白いものが、それを文章に起こしても面白いかといえば、実はそうではない。映像としてはダイナミックで大いに網膜を刺激するものなのに、それをそのまま文章に起こしたら、なんだかチープで、随分と刺激に欠けるものとなってしまうことがあります。

例えば、ファンタジーやSFなどがそうかもしれません。今や高いCG技術によって驚くほどの映像美を生み出すことができてしまいますが、それをそのまま文章的に表現すると、なんだかスケールの小さい話に感じてしまうことも。空から円盤が降りてきて扉が開くとそこには大きな目をした灰色の小さな生き物が立っていた。⋯⋯なんて描写、今となってはちょっとしたギャグみたいに思えてしまう。これを最新のCG技術で映像にすればそれなりに畏しいものになりそうだけど、エイリアンを題材にしたSF小説を書くなら、今はもっと違った登場のさせ方が必要だろうと思う。

文章としての面白さは、映像として観る面白さとは違う。その面白さは人間の想像力によってもたらされるもので、それを文章で引き出すやり方は色々あるけれど、大事なことはまず「違う」という事実を自分でしっかりと認識すること。それが必要であったのだと、ようやく気付かされました。

映像先行型の作家・大矢慎吾は、そのデメリットを理解したうえで、描写するものを取捨選択する必要がある。

そのことに気がつけた今日という日は、自分の作家人生にとって、大きな一歩になるだろうと確信しています。

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