2021/08/23
好きであることに理由などいるのか?
「好き」を追いかける。「好き」に没頭して生きる。
別にそれでいいではないか、と僕は思う。
むしろ、それしか無いではないか、とも思う。
生きていくうえでの道標(みちしるべ)が。
僕は文章を綴るのが好きです。作品を創るのが好きです。
だから今日もこうしてパソコンの前に座っているわけですが、ただ、文章を書くという行為が好きなのか? と聞かれたら、少し返答に困ってしまいます。
もしもこの文章をノートに書き綴ると考えると、ひどく億劫に感じてしまいます。それは手書きが面倒だ、漢字の変換が手間だ、などという効率の面からそう思うのではなく、なんだか気持ちが高ぶらない、というのがその理由です。
だって、自分しか見ないのに。その為に労力を割く気は起こらない。
きっとこれは料理好きの思考と同じなのだと思います。自宅に招いた友人たちに手料理を振る舞った人物が、「普段からこんなの作ってるの?」と聞かれて「そんなわけないじゃん」という答えを返す、あの場面。
つまりは、そこに相手がいてこそ、という話なのです。
しかし、そこから一歩踏み込んで、「なぜそれが好きなのか?」を考えだすと、途端に迷宮入りしてしまいます。
「これだ」と自信をもって断言できる理由が見つからないからです。
だけどぶっちゃけて、見つからないフリをしているだけなのだ。ということを、僕は分かっています。
それを公に言ってしまうと、自身のエゴイズムをさらけ出すことになり、ナルシストの烙印を押されることになる。ということが分かりきっているからです。
少し話は変わりますが、「アイドルになりたい」という願望には、「たくさんの人を笑顔にしたい」という動機がつきものです。おそらくもう何十回と耳にしている気がします。
もちろんそれが本心である人物もいるのだと思います。あるいは二次的な動機、副次的な願望であるという人物もいると思う。
けれども、これだけ頻繁に引用されるということは、おそらく〝据(す)わりがいい〟ということがあるのではないでしょうか。当たり障りのない、優等生なアイドル像を実現させる動機なのではないかと、個人的には想像してしまいます。ひねくれていますね。
ただ、100%自己犠牲の精神だけで生きている人など、いないのではないでしょうか。もしもいたのならば、僕なんかは「嘘つけよ」とその相手に言ってしまうかもしれません。キレイゴトが好きではないので。
「輝きたい」
「皆んなの注目を浴びたい」
「人の人生に影響を与えたい」
そのような願望は、多分に耳障りのよい言葉ではありません。だから公言することを躊躇わせるのかもしれません。
そう、大矢慎吾という作家と同様に。
この社会では、何をするにも理由が必要であるように感じます。
「なぜそれをしたいのか?」
「なぜそれをする必要があるのか?」
「それをすることにどんなメリットがあるのか?」
そこに各々の〝納得〟が必要だからでしょうか。
しかし申し訳ないが、これは自分の人生の話なのです。自身が授かった寿命を使ってどんな体験をするのか、という「選択」の話なのです。
理由なんて、どうでもいいじゃないですか。
好きなんです。
ただ好きなんです。
それ以外に理由なんて見当たらないのです。
その気持ちを頼りに進んでいくしかないのです。だって、手がかりがそれしかないのですから。
理由を聞かれたら「好きだから」。
しかしなぜ好きなのかは・・もう、考えるのをやめました。面倒くさいので。
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