2023/05/23

宇宙や魂の存在を考察する哲学

 

この記事を書いている人 - WRITER -

例えば、他人から職業を聞かれて「起業しています」と答えると、多くの場合「すごいですね」といった反応がかえってくる。質問者の年齢が高ければ高いほどその傾向は強くなる。

それは、30万払えば今どき誰でも起業できることへの無知がそうさせるというよりも、会社を興すことはすごいことだという価値観がそうさせるといった感がある。事業を興す=社会に雇用を生み出す、といった昔ながらの事業(実業)を連想しているのではなかろうか。最近は社長一人でも事業は興せるし回せる。むしろ本人がたいして事業の中身を知らなくても外注化によりなんとでもなる。そういう意味では昨今のIT起業の実態に対する無知が要因であるともいえる。

これが質問者が二、三十代となると話はすこし変わってくる。この場合の「すごいですね」という反応には、いくばくか嘲笑のニュアンスが込められている。それは、スレた考えをもたない若者だったら〝自ら人生を切り拓く=勇気がある〟と素直に解釈するところを、何らかの曲解が加わることで〝わざわざリスクをとる=頭が悪い〟といったふうに解釈されるからであろうと想像される。努力することがカッコ悪いというあの例の価値観に通ずるものがあるのだろうか。我々の世代はあくまでも推論を重ねてみるしかない。

いずれにしてもその反応を呼び起こす契機となるのが『先入観』。未知という恐怖に対して、人は、先入観という鎧で自らを守る。生きるための生存本能がそうさせるらしい。たしかに未知なる存在にも何か対応をしなければ、即座に判断を下していかなければ、次々と訪れる生活の困難を乗り越えていくことはできない。子育て、インスタ映え、物価の高騰。とにもかくにも現代人は忙しいのだ。

そういった先入観の格好の標的、もっとも容易な判断をくだせる未知の対象としてあげられるのが、スピリチュアルや宇宙観といった類の話であろう。それはもうクロスカウンターの如く、その村にある地名をひとつでも挙げた途端、見事にそれに合わせるような嘲りとなって繰り出される。荒唐無稽、馬鹿馬鹿しい、洗脳されてるよ。その反応はことごとく軽蔑の響きを帯びている。

たしかにその村の人たちの会話にはいかがわしいものが多い。聞いているうちに思わず失笑してしまうような、根拠のない、眉唾ものの会話がいかにも真実であるかのように話されている。それらの拠り所が話者の直感でしかないというのがまたいかにも胡散臭い。抽象的な概念のため提唱した者勝ちみたいな感があるのも否めない。形なきものは無いことを証明することもできないのだ。

そんないかにも胡散臭い、荒唐無稽のレッテルを貼られる〝宇宙〟や〝神〟や〝魂〟といった事象を理論的に検証していこうというのが、哲学における『現象学』という学問(正確には現象学によって論理を展開することを指す)。いかにも堅苦しくて小難しい哲学にもそういった道(未知)が存在することに少なからず私は驚いた。先入観によって哲学というものの性格を「科学的なもの」と決めつけていたのかもしれない。

 

 

幼い頃からいつも考えてきた。人はなぜ生まれくるのだろう? 生きることにはどんな意味があるのだろう?

それらの問いに答えを出すためには自分の身のまわりをとりまくもの、この世界、つまりは宇宙について考えざるを得ない。そしてその創造主のことも検討せざるを得ない。

これまでは自分なりに答えを出してきた。その答えを指針として自分なりに人生観を築いてきた。

ここに至って作家として、その自身の主観に哲学の厚みを加えられればと考え、今日も哲学書と向かい合っている次第。

この記事を書いている人 - WRITER -
 

Copyright© 売れっ子Kindle作家 大矢慎吾 , 2023 All Rights Reserved.