日本アルプス

 

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 朝靄の立ちこめる高速道路を縫うように小型の四駆者が駈けている。ぶるるるとエンジン音を奏でた白い車体が時おり弾み、灯したヘッドライトが上下に揺れている。

 そろそろ遠くの方の空が白みかかり、高架の左右に点在する集落に夜明けを告げようとしている。夏だというのに大気はけっこうな涼しさを帯びていて、少し開いた車窓にひゅうひゅうと風が吹き込んでいる。快晴の予報にそぐわず雨はその気配もない。

 かれこれ二十分ほど他の自動車の影がない。いつか追い抜いていった白のバン、間違いなく社用であろう暴走車を最後に、しばらくのあいだ安寧が訪れている。まわりの景色からも文明の色が褪せていき、高架の下には田園や畑が広がるばかりとなった。たまに現れる家々は一軒一軒が大きく、蔵つきのお屋敷といった感じで、見た目にも年季を感じさせる佇まいをしている。なかには茅葺き屋根の家なんかもある。

 青看板に『ひるがの高原』の文字が出てきた。目的地までの道のりはまだまだ長い。

 深夜三時に名古屋を出発し、三時間走り続けて岐阜県北部まで到達。ここからもう少し高速を走って高山西ICで降り、しばし一般道を走るとロープウェイの駅が待っている。そこから二つのロープウェイを乗り継いで標高二千メートルまで上がれば、その先にようやくお目当ての西穂高岳の登山口がある。ここまで来るだけでもちょっとした山に登頂するくらいの体力を消費する。

 音楽すら流れていない車内の後部座席には、左右のポケットにミネラルウォーターを装着した赤いリュックが置いてある。四十五リットルの容量は、着替え一式と厚手のジャケットを詰めてなお余白があり、背中を覆って後頭部にまで達するその全長は、いざという場面で枕としての機能を果たす。ハイキング以上の登山において一般によく見かけるサイズのものだ。

 リュックの横には小さなレジ袋が雑に転がっていて、その口から道中でつまんだサンドイッチの袋が半分飛び出している。ロープウェイの始発に乗るためには途中で止まっている余裕はない。あらゆるものを前日までに準備し、家を出たあとはできるだけノンストップで目的地まで車を走らせる必要がある。

 どうして始発に乗るのかといえば、帰りのロープウェイの最終便が夕刻に設定されていて、登山者はそれまでに登頂して戻ってくる必要があり、始発でなければ山頂までの登山を断念せざるを得ない場合がでてくるからだ。登山にきて山頂の景色を拝めないことほど未練なことはない。いわばそのために登っているようなものなのだから。

 そのために家を出発してから下山するまでのあいだ一刻の猶予も許されない状況が続き、全体を通してトイレ休憩さえ惜しまれるほどのタイトな行程になっているのだ。

 「そこまでしてなぜ行くの?」これまで何度問われたか知れない、と私は考えた。

 貴重な有給休暇をあてた趣味。「デートか。ようやくお前にも良い相手が見つかったらしいな」茶化してきた先輩社員には曖昧な微笑を投げておいた。このての相手に真実を伝えるのは悪手でしかないことを私は知っている。彼らにしてみればいかなる利点を並べ連ねてもなお疑問の対象でしかなく、原始部族に簿記を教えるような徒労を負わされることになる。好奇の的となって喫煙室でのちょっとした会話の種となるか、もしくは一方的に精神面を心配され同情の目にさらされるのが関の山だ。

 彼らからすると四十二歳の独身男がどうして一人でそんなところに行くのか、という話なのだろう。そんな辺境に出会いが転がっているはずもないだろうに。

 しかし四十二歳の独身男だからこそそんなところに行くのである。いかにも道理にかなっているではないかと、私にはそう思えてならない。

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