2021/08/23
気づく。という幸せ
うちの父は趣味で家庭菜園を営んでいます。
家庭菜園とはいえ、ドがつくほどの田舎での話ですから、その規模は、都会のマンションのベランダで行われているそれとはちょっと違います。小学校のプールの半分くらいの敷地でしょうか。農業とまでは言えないけれど、一般的な家庭菜園よりは少し本格的な野菜作りをしています。父の兄と二人による共同作業で。
完璧主義ではあるものの不真面目な父に対して、父の兄は几帳面でおまけに真面目な性格を有しており、その兄の先導で行われるこの野菜作りは、身内であることをまったく抜きにしてそのクオリティに称賛を送らざるを得ません。作る野菜によってはプロの農家からもお墨付きをいただくこともあるほど。それもそのはず、市場に卸している農家と隣接した畑で栽培をしているのだそうです。
という、そんな話は、とうの昔から知っていました。
以前にも何度かその野菜を送ってもらったことがあったわけで、食べればたしかに美味しいし、その野菜がまとっている香りもスーパーのそれとは別格の芳醇さを誇っていることも知っていました。なにせ〝真に〟無農薬なのですから。
以前に農業のボランティアに参加した際、プロの農家の方からこの国の八百屋事情について説法を受けたことがあります。その方曰く、現在(2017年)の八百屋業界において「無農薬」と表示することは法律で禁止されているのだそうです。数年前までは「無農薬野菜」と謳われた野菜が地域のスーパーや楽天市場にも並んでいましたが、いつからかそれらが「オーガニック野菜」に置き換わっているのは誰もが思い当たることかと思います。
無農薬栽培の定義づけは実質的に不可能である。というのが法律制定の理由だそうで、そうなった経緯を聞くと、思わずなるほどと思わされました。
例えば、野菜そのものが無農薬であっても、植えてある土は大量の農薬を含んでいる、ということがあります。無農薬栽培を実現(達成)するために事前に仕込むことによって。それが数年前までの無農薬栽培の定義であったことがその理由なのだそうです。
しかし上記の手法が横行しだすと、その野菜は果たして無農薬だといえるのだろうか? という議論が巻き起こり、ではどういうのが無農薬栽培なのか? と定義をハッキリさせようとしたところ、それは不可能だろうという結論に至ったのだそうです。数年前に撒いた農薬はどうか? なんてことを言い出したらキリがありませんし。
その八百屋事情に照らし合わせれば、うちの父の野菜も当然、無農薬野菜を名乗ることはできませんが、身内の中ではそのように認識しています。そして、実際に無農薬で栽培しています。趣味にしてもまったく恐ろしい手間です。いや、趣味だからこそできるのでしょうか。商売を考えていないからこそ可能となる話なのかもしれません。
そんな希少な野菜を送ってもらっていたにも関わらず、以前までは段ボールを開けた瞬間にこう思っていました。
「いやいや、多いって」
完璧主義の父の施した梱包は隙間がまったく無く、大きな段ボールの隅から隅までが野菜で埋め尽くされていました。その光景を目の当たりにすると、香りの芳醇さよりも、占拠される冷蔵庫スペースのことで頭がいっぱいになってしまいました。これだけの量、一体どうするんだよ、といういくばくかの苛立ちと相まって。
野菜の希少さが、「忙しくて消費できない」という憂いによって掻き消されてしまっていました。まったくもって罰当たりな話ですね。
それが妻の仕事のテレワーク化によって生活スタイルが一変し、自炊することが多くなってくると、冷蔵庫いっぱいに占拠した野菜などはむしろ有り難い以外の何者でもない。まるで手のひらを返したように、そのような思いを抱くようになりました。父からすると「なんて現金な子供だ」という話だと思います。申し訳ない、本当に。
父が作った野菜は格別に美味い。
そのことに再び気づけたことは、僕たち夫婦と、そして父にとって、あまりにも幸せなことなんじゃないか。
そんなふうに思えてなりません。
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