決して避けては通れない遠回り

 

この記事を書いている人 - WRITER -

思わぬ遠回りをするに至ってしまった。アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、そしてアーサー・コナン・ドイル⋯⋯。

元々読むつもりはなかった。これらの作品がもはや古典化しているだとか、現代にはもう通用しないであろうからだとか、そういったネガティブな理由からではなく、翻訳書に対する私の忌避感がそうさせていた。

翻訳書に綴ってある日本語にはまず例外なく違和感を覚えてしまう。端的に言えば、いかにも読みづらい文章なのだ。

英語と日本語は根本的な部分にいくらか相違点がある。例えば、「思わされた」などの受け身の表現は、英語には存在しない。キャッチボールの場面では「投げる」と「取る」という言語によってその光景が表現される。受ける側がボールを取り損ったとしても、英語の場合その表現は「私はボールを取りこぼした」となる。日本語のように、相手の投げた巧みな変化球によって「私はボールを取りこぼされた」とは表現しない。そういった微細な感覚にこだわる日本語と、大味でシンプルな英語とでは、翻訳の段階において様々な困難がともなうことが察せられる。とくに小説の場合はそれが顕著に表れると想像される。

そういった背景からか、翻訳書の日本語はやたらと回りくどい文書が散見される。とくに美しい表現を求めて修飾語が多用してある文章に関しては、もう途中で読む気が失せてしまうくらい言い方がまどろっこしい。もっとシンプルに言えよ、と私なんかは思ってしまう。シンプルで分かりやすい文章、本質を好む者にとっては、過度に凝った婉曲表現など逆に醜く感じられてしまうのだ。

そのために推理小説を分析していながらも、それら海外クラシックの名著系は意図的に避けていた。読んでいると次第に気分が悪くなってくるからだ。そういえばある漫才師が「下手なツッコミを聞いていると気分が悪くなってくる」とテレビで言っていた気がする。私の方はそういった技術的なものではないが、きっと誰もが自身の信念に抵触するものには苛立ちを感じてしまうのだろうと思う。つまりは好みの問題ということ。

にも関わらず、気がついたら「アクロイド殺し」なんてクリスティの大傑作をKindle Unlimitedでダウンロードしていた。読まなければ、という強い衝動に突き動かされたのだ。ほとんど無意識、けれども確信に満ちた思いで。

一体、いつまでこの〝推理小説村〟に滞在しているつもりなのだろう。もはや自分でもわからなくなってきた。古典は江戸川乱歩だけで十分だったのではなかったか。ここにきてどうして海外ものにまで手を出すのやら。さすがに遠回りが過ぎるではあるまいか。

遠回り──しかし、考えてみれば、令和4年の私の行動はすべてが遠回りだといえる。文章を学ぶため言語学としての日本語のお勉強から、小説の歴史の分析、さらに推理小説に特化した分析と、処女作の原稿にはまったく手を加えず他のことばかりしている。この生活をずっと続けられる保証がない以上、さっさと己の創作に取り掛からねばならない。一日たっぷり作家業をしていられるうちに完成できなければ、一体いつになったら作品を生み出せるというのか。

──だけど、それでも、これが必要な行動であると私は確信している。面白い小説を生み出すために、ひいては売れっ子作家になるために、決して避けては通れない遠回りである、と。

この記事を書いている人 - WRITER -
 

Copyright© 売れっ子Kindle作家 大矢慎吾 , 2022 All Rights Reserved.