潔癖なまでの「自分らしく」は危ないのかも
私が学生の頃に「自分探しの旅」という言葉が流行語のようによく使われていた。現役を引退した中田英寿氏がそれを口にする以前から若者のあいだに広く定着していたように思う。
自分探しの旅と我々が口にすると決まって大人たちは鼻で笑った。「なにが自分探しの旅だよ」「探したって見つかりゃしねえよ」我々の親の世代、つまり高度経済成長期を生きてきた現シニア世代たちは、自分に向いているとか向いていないとか、そんなことを考える余裕もないくらい職務に打ち込んできた世代であるらしい。激務に次ぐ激務。国がグローバル化に向けて発展していくなかで仕事は山のようにあった。だから選んでいる場合ではなく「とっとと働いて国に貢献しろ」といった風潮があったのかもしれない。
とはいえ誰もが一律に勉強していい大学を目指していたのかというと、それはまったく違う。むしろそうした世間の声に反発するように「ヤンキー」「つっぱり」といった文化が今以上に若者のあいだに蔓延していた。曰く、真面目orヤンキーといった構図であったとのこと。学生時代からまっすぐ進んでいくのか、寄り道しまくった末に「そろそろ落ち着くか」と社会に入っていくのか、そうした二種類の生き方があった。
寄り道は基本的に「遊んでいる」と世間からは見なされた。あるいは「夢を追っている」とも。その期間は各々に与えられたギフトみたいなもので、その間に何者にもなれなかったのなら諦めて社会に迎合する。以降は社会人としてちゃんと生きていく。ギフトはそれまでに与えられたいわば〝ロスタイム〟みたいなもの。
成功とは一部の選ばれた人間しか成し得ないことである。ロスタイム中に自分がそうであるのかないのかを確かめたうえで、そうでないとわかったならばとっとと働け、といった考えがシニア世代にはあったよう。これは周りの大人たち(つまり私たちの親の、その親の世代)からそういった圧力をかけられてそう思っていたわけではなく、自分たち自らそういう考えのもとに行動していたらしい。なんと大人だろうかと私は思う。はなからロスタイムであることを認識しながらそのうたかたの時を過ごしていたということだ。「自由になれた気がした15の夜」と歌った15歳の尾崎豊が連想された(あの歌は中学時代に作られた)。自由になれた気がした、ということをちゃんと認識しつつヤンチャをやっている15歳、ということなのだ。
そういう世代の方々から見れば、自分探しの旅は「社会から逃げている」というふうに映るらしい。自分たちは遊んでいることを認識して遊んでいたし、限りがあるものとわかって夢を追っていた。そこには常に社会があった。旅に出るだなんて、やりたいこともないくせにただ働きたくないから言っているだけじゃないのか? といったニュアンス。つまり自分探しの旅なんて言葉にかこつけてただ現実逃避しているだけだろうということなのだ。
たしかに、それは間違っていなかったように思う。ちょうどフリーターという職業が世間に定着したのも同時期。学校を卒業したらすぐに働くということを我々はどこかで敬遠していた。それをしたら〝それでもう人生が決まる〟みたいな恐怖があった。親の世代がバイクに乗って大人たちに反発したように、我々は飛行機に乗って社会に反発していた。なんとかロスタイムを延長させようともがいていたのだと思う。
きっと私は、誰もがどこかで打ち切るはずの自分探しの旅を、アラフォーになるまでやめなかった人間なのだと思う。それがためにこれほど苦しむ羽目になったのだろうと思う。
一般的にはどうなのか知らないが、私にとっての自分探しの旅は、別に楽しいものではなかった。むしろ辛いものだった。こんな日々早く終わってほしいとずっと願ってきた。
考えたところで何も見つかるはずはない。文字通り旅に出なければ見つかるものも見つからない。行動しなければ何も糸口はつかめない。だから休むことなどできなかった。走り続けるしかなかった。止まった瞬間にこれまでに自分がやってきたことが全て無に帰してしまう気がしていた。まさしくただの現実逃避になってしまうと思っていたのだ。
そうして四十も目前になった今、私の旅は、まだ終着点に立ってはいなかった。その地点さえも確認されてはいなかった。いまだに『自分』というものは見つかっていない。それが何なのかもハッキリしていない。全ては漠然としたまま。おぼろげな自分というものを追って延々と登っては降ってを繰り返している。
ここまでくるとさすがにわかってきた。おそらくこれは一生続くのだろう。自分探しの旅に終着点など、無いのだ。そしてそこに待っている答えなど、おそらくない。そういう意味では「探したって見つからねえよ」と嘲笑した大人たちの言葉は正しかったのだといえる。これは探したところで見つかるような類のものではないらしい。曰く、『自ら設けるもの』なのだろう。それがそのまま自分という答えになるというのが真理であるらしい。
まだまだ旅の中途にはあるものの、私は最近こう思うようになった。やりたいことよりも結果が出ることを探した方がいい、と。
これまで自分と向き合ってきて気づいた。私は見返りなきものに努力することができない人間であることに。その先に見返りがあるからこそ頑張れる人間なのだと、自分だけが損をするのが嫌な人間なのだと、そのことを知った。つまりいくら自分のやりたいことであってもそれが金にならないのなら途端にやりたくないことに様変わりしてしまう、自分はそういう現金な人間であるらしいことがわかってきた。
やりたいことがそのまま結果につながることとは限らない。いや、むしろ己の内側から湧いて出てきたやりたいことなんて、ほとんどがこの現実社会においては箸にも棒にもかからないようなこと。それは才能だとかそういう話ではなく、そもそもそれを求めている人がいないという需要と供給の関係から生じる話。つまり自分がそれをやりたいと思っていても、それを必要としている、求めている人がいないということだ。だから当然、結果につながるわけがない。お金という結果に限らず、の話で。
少なくとも私には新しいものを創造して提供するような才能は無いみたい。だから自分の内側から出てくるもの、衝動にフォーカスして行動を起こすと、てんで見当違いなことをやってしまう傾向にある。これは作家活動に限らずこれまでもそうだった。「これ、いいんじゃないか?」とひらめくものは後で考えると愚にもつかないアイディアであることがほとんどだった。お金にもならない、求めている人もいない。満たされるのは自分だけという、自己満足以外の何物でもない愚策だった。
もしも〝ありのままの自分〟がそういう人間であるのだとしたら、私はありのままの自分で生きることは嫌だ。なぜなら自分だけが損をするような思いをしたくはないからだ。結果の出ないことに努力なんてしたくないからだ。見返りのない苦労を背負うなんて馬鹿馬鹿しいからだ。
もしも〝自分らしく生きる〟というのが自分ばかりを満たす人生であるのだとしたら、私は自分らしく生きたいなどとは思わない。なぜなら過去に過ごしたその人生はクソみたいだったからだ。毎日が無色だったからだ。無為のあまり死にたくなったからだ。生きている意味を感じられなかったからだ。
酒に狂っていた私は「どうか人の役に立たせてくれ」と心から願っていた。そういう生き方をしたいと心底思っていた。
しかし自己犠牲になるのは嫌だった。だから自分のやりたいことで人の役に立つこと、それでお金を稼ぎたいと思った。その行く末が「売れっ子作家」だった。自分がそうなることできっと誰かの役に立つだろうと信じた。
ただどうやらやりたいことを仕事にすることができないとわかってきた今、自分の意志というものを抜きにして考えてみると、人の役に立つとはつまり『結果が出る』ということなのではないかと思うようになった。
結果が出ている。ということは、つまりそれは人から求められている。ということを表している。需要に対して供給しているということなのだから。だったらそれがすなわち人の役に立っているという状態を指しているのではなかろうか。人の役に立ちたい=人から求められていることをやりたい=結果が出ることをやりたい。そういった構図なのではなかろうか。
自分の内側から生じ出でたものには「他者」がない。だから結果が出ない。
それは自分としては満足感を感じられるし、満たされるような思いにもなるだろう。なにせ自分の人生を生きているのだから。誰のものでもない自分だけの人生を生きているのだから。
しかしそれが度を越したもの、他者という一種の〝障害〟を排除した潔癖なものであったならば、それはけっこう危ないものなのかもしれない。他者との接点のない人生。他者との軋轢やしがらみに縛られない人生。それはたしかに楽だけど、なんだか虚しい。自己完結ばかりの人生は、やっぱり虚しい。痛みや苦しみ、悩みのない人生に対して、生きていることを実感することができるのか、私にはちょっと自信がない。それは酒に狂っていたあの頃とあまり違わない日々であるような気がするから。
結果が出る=人から求められている
これほどシンプルな構図はないだろうと思う。ごちゃごちゃ考えるまでもない。結果がすべてを証明してくれている。
その障害となるのは「それがほんとうに自分のやりたいことなのか?」といった疑問。葛藤。それが結果が出る道から自分を反らすことになるのだろう。
たしかに自分のやりたいこと=結果が出る、であったならどれだけ幸福だろうかと思う。そんな人生最高じゃないかと死ぬほど憧れてしまう。それと引き換えに短命になってしまうのだとしても叶えたいと私は思う。けれども私の人生は、どうやらそういう感じの道ではないらしい。自分探しの旅を長いこと続けてきてそれくらいはさすがにわかってきた。
あるいはここまで続けてきた旅は、それを甘んじて受け入れるための、妥協するのではなく受け入れるための、そのための道のりであったのかもしれないと最近思う。やってみて体験しなければ納得できない自分の性分が招いた、自業自得の道のりだったのかもしれない。
結果の出る道が、別に自分のやりたいことでなかったのだとしても、それが自分のやりたくないことではないのならば、あるいはそれで十分なのかもしれない。
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