2023/01/30
生き様も込みで無頼派。その晩年の結実、太宰治
順番は前後するものの川端康成氏との比較という便宜上、三島由紀夫氏の分析を先にしていた。文学の歴史においては本来、彼らが続く系譜となる。
無頼派(新戯作派)──自然主義などの既成文学に対する反発から新たな通俗小説の流布を志向した。江戸時代の戯作=戯れに書かれたもの、の精神に基づいた作風にその傾向がみられる。戦前から戦後のデカダンス=退廃的な風潮、と相まって若者らからの支持を得た。
かの昭和の大文豪じゃないけれども、以前からこの文学史にはなぜだか鼻もちならない印象をもっていた。史実のいちいちが鼻につくというか、各種文献において散見される彼らの人物像がなんだか気取っていて、得意気で、ブルジョワ的な俗物感を連想せずにはいられなかった。
そうした偏見(歴史は所詮先入観で判断するしかない)が形成されたのは、全体に見られる〝ファルス=道化芝居〟な作風や、史実から見受けられる彼らの気風にあったのだと思う。芸術家を気取った若者らがBAR(サロン)に集い、芸術談義を交わし毎夜酒と薬物に溺れ、退廃的な芸風をその生き様として〝体現〟した。──その伝聞からはいかにも青年期特有の虚栄心が先行されてくる。「他人と同じことはやりたくない」「一生懸命はかっこ悪い」これらと同類の文脈を感じずにはいられない。
国家資格取得を志していた当時の自分には、その姿勢が社会への帰属意識が欠如しているように映って仕方がなかった。文芸を心得、文学の歴史を踏襲している様子は察せられるものの、そこには大衆(というよりも読み手の気持ち)の存在が欠けている気がしてならない。新しい文学だ、芸術だ、などと謳ったところで、所詮は言葉の伝達ありきの商売。支持してくれる相手なくして文化は形成され得ない。その理念の根底には愛国心みたいなものがあるのかもしれないけれど、どこか一方通行な印象が拭えなかった。
〝生き様も含めて作家である〟本来その姿勢は感銘を受けるはずの創作態度であった。ところが彼らの場合は世間(文壇)に対する反発心ばかりが目を引き、早熟ゆえの気負いが際立って印象づけされていたがために、いわゆる折れない信念といった気概みたいなものが感じられなかったのだ。出会いが自身の青年期であったことも災いしていたのだろう。
10年後の自分がいま作品に触れてみて、かつての印象は一変した。彼らが完遂させた創作態度は、とても虚栄心なんかで成せられるものではない。
その作品群には独自性があった。また早熟な文学士ぶりをも垣間見られた。
織田作之助──『浪速』の人情味と無鉄砲さとが入り混じる刹那的風情を、文学によって顕現化(本人の志向するところからこの表現が適切か)させていた。それは昨今に至るまで多く見られる型通りな〝ほろり〟の人情物語ではなく、強面の借金取りのツッコミによってコミカルに茶を濁す吉本的なバイオレンス劇でもない。巻き起こる出来事によらず生活風景によって描き出すその表現は、物語の面白さや登場人物のキャラクターに頼った娯楽ものとは絶対的に区別される。いわば、純文学による人情もの。その「世界観の演出」と形容すべき文章技法からは、昨今のファンタジー小説へとつながるものを感じた。
坂口安吾──「堕落論」にて提示された思想は、戦後のこの国の実情をある種肯定的に、建設的に捉えたもので、絶大なる虚無感に覆われていたと想像される当時の民衆らに救いの道を示したに違いない。「なるべくしてなった」「我々は間違っていたわけじゃない」といった暗のメッセージが込められた表現手法には、逆説的な主張によって「ありのままでいい」と読み手を啓発し、儒教を礎に置く日本・韓国において一世を風靡したあのベストセラーがおのずと連想された。その作風からは義侠心や理知的な思いやりの表現が垣間見られ、また氏の文学に対する意志的な姿勢が感じられた。
そうしたなかで分析の最後の最後に至るまでかつての先入観を拭えなかったのが、偏見の筆頭であった太宰治氏だった。
その不快感は作品から醸し出される女々しさに向けられたものなのか、氏の成した唯一無二の世界観に対する嫉妬であったのか、あるいは反故にできない邂逅にすがろうとする哀願の叫びであったのか⋯⋯、その判別もつかないままに数日間胸をざわつかせた。
自身の青年期における「人間失格」との出会いの衝撃は、特別なものだった。他の作品から受けたものとはその影響力をまったく異にした。
許可──。
そこに綴られた言葉は、感情移入や共感といった感慨を超越した、ある種の経典に記された指南のような響きを自身にもたらした。
私は最初、これは著者本人の遺書なのだと思った。もはや作家としての体面などどうでもよい、築いた地位や名声などの一切を放棄し、ほとんど投身するような意志で胸の内を原稿に書き殴ったのだと連想した。これはいわば暴露本の類なのだと。史実とも符号するうえに、言葉の迫力がフィクション離れしている。
己のすべてをさらけ出すその勇姿に、自己肯定感が著しく欠如していた25歳の青年は、世の中に対する存在価値の提示を見た。可能性を見た。その勇気の告白は、この先の道標となって眼前の暗闇を照らしてくれた。一度も湾曲することのない真っ直ぐな先導をとって。
「斜陽」「ヴィヨンの妻」周辺の作品を読み、そこに投影された氏の生き方へとますます傾倒していった。これほど作風と生き様が一致している作家には出会ったことがない。まさしく魂の言葉を綴った文人。しかも創作物としても〝滅びの美〟にまで昇華させているのだから信じ難い。どれほどの懊悩を越えればこんな奇跡が起こるのだろうか。
ところが、一枚の写真が心境を一転させた。氏がスーツを着てタバコ片手にBARの高座椅子であぐらをかき気取った調子で映る有名な一枚。悲しげな目を浮かべ、悩ましい表情で頬杖をつくあの人物とはまるで別人の、いかにも余裕ぶった孤独とは無縁の光景を背負って⋯⋯。
その写真には強い違和感を覚えた。いや刹那、裏切られたような気持ちになった。激しい怒りがふつふつと込みあげてきた。
その一派のことを文学史では無頼派と呼ぶらしい。氏も若き芸術家としてその一角を担い、既成の文壇に迎合しないファルスな作風を提示していたとのこと。
──なあんだ。あの生き様は道化だったのか。氏の最期も、あれは芸術家としての表現を意図したものだったのか。
作家に対する信頼が崩壊する時というのはこんな感じの推移をたどるのだろう。こうして氏に対する印象は最悪なものとなって10年間胸の内に残滓していた。不快感が甦らないよう奥底へと追いやられたうえで。
そうして今回の分析にともない久しぶりにあの疎ましさを無理やり引っ張り出したわけだけれど、やはり時の経過とは偉大なもので、あの頃に抱いた憤怒はもう随分と希薄化されていた。まるで学生時代の失恋で負った傷を愛おしく思うような感慨へと変わっていた。人と人との距離感が身についたからなのだろう。
あの頃よりもさらに深く、氏の初期作品などにも触れるにつけ、当時の直感を、今度は史実としてしっかりと認識させられていった。
「ロマネスク」「ダス・ゲマイネ」初期の作品は晩年の作風とはまったく異なる。かたい文体で文学的で、教養なども盛り込まれてある。「道化の華」その是非は別として、三人称の地の文に作者自身が登場する(メタ的な表現)など前衛的な試みもなされている。これはあのドイツ人作家も晩年志向していたことで、小説の前提が崩れ読者の感情移入を阻害してしまうためにあまり好ましくない感はあるものの、そういった〝捻り技〟みたいな技巧まで披露されていた。王道ありきの捻り、ということは王道も可能なのだと演繹される。
とくに「女生徒」はそのファンタジーな世界観を演出する文体に卓越した技術を感じる。父を失った悲しみ、生きることの無為、戦争の残した爪痕などを抒情詩によって表現した美しいモノローグ。終始悲哀に満ちているのにあっけらかんとした語り口調と皮肉を交えたユーモアが全体を爽やかにしている。そしてまたそのコントラストが虚無感を際立たせる。けれども主人公は街ゆく人の生活や自然の美しさに内在する無垢を見出し、明日を生きる強さを喚起していく。理不尽な悲劇と対峙しながらもその中から希望を見出そうとする少女の気持ちが見事に描写されている。この作品は川端康成氏も激賞したとのこと。
さらに中期の「右大臣実朝」「お伽草紙」らの歴史(昔話)を題材とした作品は秀作に位置付けられ、その辺りでは既に作家としてそれなりの地位を獲得していた様子が十分に察せられる。どちらも破滅的な作風とはほど遠く、とても同じ作家が書いたとは思えない。
こうした氏の軌跡をたどるにつけ、氏の創作能力を目の当たりにすることとなり、道化の印象は深まるばかりとなった。〝残念ながら〟氏はやはり巧みな作家であったのだ。
無頼派の他の作家が生き様であるのとは異なり、氏の場合は最後の最後まで芝居を続けたという虚栄に過ぎない。芸術家をこじらせたナルシストが己の芸術観の高踏に囚われてしまっただけの結末。その最期の史実は限りなく自己陶酔の性格を帯びている。
あれから歳を重ね怒りに震えることはもうないけれど、やはりどこかやるせない気持ちを抱かずにはいられなかった。別に期待はしていなかったものの残念な思いは禁じ得ない。その意図がどうであれ、一度は自分に救いを与えてくれた相手であったのだから⋯⋯。
もしも、「富獄百景」や「東京八景」などのエッセイを読まずに分析を終えていたならば、太宰氏に対する自身の偏見が払拭されることは決してなかっただろう。
⋯⋯ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらえむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそりうずくまって湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。
⋯⋯「おや、月見草。」そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。3778Mの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。
──「富獄百景」より引用。
エッセイには著者の人間性が反映されるものと私は考える。
タレントらによる〝素顔見せます〟な作品でもない限り、出来事をそのまま書いたところで何物にもなるわけはなく、小説家がエッセイを執筆するにあたっては、基本的に著者の眼鏡による加工が施されるものと想像される。そうしたなかで古典のエッセイには少しばかり過剰な演出がなされた作品が稀(?)に見られ、その姿勢などから書いてある内容とは別の側面で著者の人物像を窺い知ることができる。
それは例えば、「どうだ、オレのこの文章は」といわんばかりの外観的美文がページを埋めていたり、いかにも素朴な事柄のなかから人生や命の尊さを見出したという〝文学士然とした感性〟となって顕現していたりする。物語ではなく著者自身を語るという性質がそのような傾向を写し出すのだろう。そうした意味でエッセイは著者の実像がたしかに反映される著作物だといえる。
上記に引用した氏のエッセイの文章から何を感ずるのかは人それぞれだと思う(作品の背景を知ったうえで読む必要あり)。私の場合は、上記の記述に氏の本質を垣間見た気がした。
──きっと、太宰氏にとって道化とは、社会への〝適応の試み〟であったに違いない。
私は氏に対してずっと臆病者の印象しか抱いていなかった。現実逃避の生き様だとしか見ていなかった。けれども、それは違った。氏は生前ずっと戦っていたのだ。そして一度も逃げることなく完遂させた。「自分の気持ちに正直に生きる」という生き様を。
氏の作品に綴られた数々の文章は、その文体をころころと変化させ、全体の作風も右往左往して一向に落ち着かない。果たしてどれが作者の実像を反映させたものなのか判然としない。そのためにもしくはすべてが虚構なのではないかという懐疑心を抱かせる。とくに「走れメロス」など、たまの戯れと劇薬の購入資金調達のために創作しただけなのだろうという気さえ起こさせる。氏にしては嘘くさいほどの美談であるがゆえに。
しかし太宰氏の作家人生において、作風や主題などの一貫性の欠如は、表面的な問題でしかない。氏という作家にとってもっとも重要なのは、書に綴ってきた言葉そのものにあった。
私は思う。氏の綴った言葉には、徹頭徹尾、自分を欺いた言葉はなかったはずだ。
私生活においては数々の虚言を吐いてきたことだろう。その放言によって幾多の身内を欺き、裏切り、己の信頼を底の底まで失墜させてきたことだろう。
しかしこと著作においては、氏は、最後まで正直な言葉を綴り通した。読み手の存在、それが与える社会への影響に鑑み、その時々の正直な気持ちを作品へと投影させた。過去を生きた芥川龍之介氏がそうであったように。そこにはあるいは門下であった井伏鱒二氏の影響もあったのかもしれない。文学が社会に果たすべき役割を理解し、その力を利己的な意図に用いることは決してしなかった。
小説の奇跡は、作家と作品との一体化によってしか起こり得ないと私は思う。
氏にとってそれは晩年に至りようやくの結実を見た。「ヴィヨンの妻」でその端緒を掴み、「斜陽」において成熟された。作家の人間性の延長線上にある作品、その一貫性と説得力、いわば作家としてのアイデンティティの確立といった境地に至ったものが晩年の作品なのではないだろうか。それは皮肉にも滅びの美という芸術性をともなっていた。
また私は思う。太宰氏は小説家をも、そして芸術家をも、別に志していたわけではなかったのではないかと。氏はただ、自分という人間であり続けただけなのではないかと。
太宰氏を論ずるとき、よく対照的な作家として三島由紀夫氏の名が挙がる。
三島氏が本人と対面した時に言い放った「僕はあなたが嫌いなんです」という言には、単なる生理的嫌悪に留まらない意味が込められていたと推察される。そしてそれは主張の対立を示唆していたように思われる。光と影、水と油、交わり得ないお互いの芸術観を嫌悪というかたちで三島氏は言い表した。あるいはその場での議論を求める態度であったのかもしれない。
それに対して狼狽しへどもどしていたと吹聴される太宰氏の逸話が〝いかにも〟といった感があるが、その史実の是非はどうでもよく、そもそも氏には言いたいことなど別になかったはずだ。三島氏のある意味での好敵手扱いは、太宰氏にとってはお門違い、ほとんど道端で当たり屋にぶっつかられたようなものであったに違いない。まともに相手にしたところでこちらに得るものが何もないのだ。この場面においては「そんなあなたが僕は嫌いなんです」という太宰氏の返しが個人的にはもっともしっくりくる。
一部ではよく知られている、実は両者には相似した点がいくつも見られた。それは史実にも残されており、三島氏自身も一部を認めている。
彼らは、入り口は同じだった。道中も同じだった。しかし出口を通って表されたものはまったく正反対のものであった。三島氏は芸術を志向し、太宰氏は人間を志向した。
どちらも「完全なる美」を追究する態度に変わりはなかったものの、その生き方は真逆の主張を意味していた。相手の生き方を肯定することは、すなわち、自分の生き方を否定することであったのだ。
太宰治は最後まで人間であり続けた。
そのために、人間失格となったのだ。
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