目に見えるものだけを追い求める愚かさ

 

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このブログは公式サイトとアメブロにて記事を更新しているのですが、アメブロの方では管理画面で「3年前のこの月に更新した記事」などの表示がなされます。自身のブログのアーカイブを部分的にお知らせする機能のようです。それを見て〝そういえばこういう時期もあったなぁ⋯⋯〟などと物思いに耽ることを促しているのでしょうか。

その運営側の意図にすっかりハマってしまった自分が、3年前の11月に更新した自身の記事をその歳月ぶりに見てみたところ、「見えない進歩を感じる能力」というタイトルのものが投稿されていました。内容はタイトルそのまま、まったく結果の出ない日々にも着実な成果を感じることができている、自分にはそうした能力がある。といったことが書いてありました。手前味噌ですが、我ながらそこそこ良いことを言ってるじゃないか、と思わず感心してしまった次第です。

幼い頃から根気強さ、もしくは執念深さだけは、強いものを持っていました。求めたものはどうあっても手に入れないと気が済まない性分だったと思います。要するに、しつこいのですね。獲物を仕留めるまでどこまでもじっと目標物を追い続けるハイエナの如く。

また「思い込みが激しい」ともよく言われました。自分がこうだ、と認識したものは、間違いなくそうなのだ、と断定してしまうところがあります。今でもその気質は変わっていません。だからこそ「売れっ子Kindle作家」という呼称をいつまでも使い続けていられるのだと思います。自分の中では〝時間の問題だ〟と思っているところがありますので。

そういった人物を世間では「イタイ奴」だとか「勘違い野郎」などと形容するわけですが、ただそれは、目に見える結果が出ていないのだから、ある意味では当然だといえるかもしれません。たしかに、本当に売れっ子になる人物なのであれば、誰もが認識できる客観的事実が結果として表れて然るべきだといえるからです。そうでないうちに「売れっ子」だなんて言われても、とんだお笑い種に思えてしまうのも致し方ないかもしれません。

ただしかし、当の勘違い野郎からしても、結果以外にそれを証明する客観的事実など無いのだから、どうあがいても周りを納得させることなどできません。何を言おうが、どう説明しようが、すべては机上の空論と斬って捨てられて終いです。証拠もなしに相手を論破しようなんて単なる無謀でしかない。どれだけ議論をしたところで、こちらが恥をかくことは目に見えています。

じゃあここで、勘違い野郎の汚名を払拭しようと、客観的事実、つまりは「目に見える結果」ばかりを追い求めて歩みを進めていこう、などと考えしまうのは、まったくもって愚かなことであると個人的には思います。そんなことをしていてはまさに〝ヘイター〟の思う壺。

我々は(あえて我々は、と言わせて下さい)誰かを見返すために己の道を突き進んでいるわけではありません。誰かに認められたいがために苦難の道へと歩みを進めているわけではありません。

ただ自分が自分であるために、目の前に見据えたこの道を、日々、一歩一歩、未来へと確かな歩みを続けているだけであるはずです。

だからこそ必要なのは、目に見える結果などではありません。自分自身が昨日よりも着実に前に進んでいることを実感できる、その「確かな手応え」さえあれば、それだけで、もはや十分なのです。

見えない成果を感じる能力。それだけは、卓越したものを有していると自負しています。聞かん坊と称された子供の頃から今でもずっと変わっていません。これさえ有していれば必要十分だとさえ思っています。我が道を突き進むにあたっては。

 

⋯⋯と、三年前に書いた記事を今の自分が書いたらどうなるかと思い、アップデートした上で再び記してみました。

だけど、やはり大して変わらないですね。どれだけ文章が上達しようとも、自分の中にある芯の部分が変わっていないので。

だから〝そういえばこういう時期もあったなぁ〟なんて物思いに耽ることなど、自分にはありません。今も3年前と変わらぬ情熱で日々を生きているのだから。

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