筑前煮に対する不条理な情熱

 

この記事を書いている人 - WRITER -

料理は嫌い。端的にいえば興味がないため。

もう一歩踏み込んで観察を加えてみると工作に対する不興が窺われる。事物の過程に好奇心はあれど再現への衝動は生じない。知れば事足りる、わざわざ手を動かすのは煩わしい。不器用なのは体が示す拒否反応の表れではないかと言い訳してみる。

そこに例外が一つ。筑前煮という、いかにも手のかかる料理だ。

あるいは簡単な手順も存在するのかもしれない。レンちんなどの時短を駆使した調理法が一部で確立されていてもなんら不思議ではない。圧力鍋などの調理器具のほうの時短進化も見られることだし。

ただ意義というべきか、主旨とでもいうべきか、湧きあがる衝動を鎮めるに至るには、諸々の面倒な下ごしらえの簡略化は許されない感がある。それを経ることで満たされるわけではないものの、満たすためにはそれを経ることの必然性を感じずにはいられない。さもなくば筑前煮そのものの存在意義さえ疑わしくなってくる。歯応えを愉しむために根菜がそこに名を連ねているのか、と。

今日で何度目の志向だろうか。未だに習得にはほど遠い過程の再現性。指南書なしにはアク抜きさえも覚束ない。

煮汁のしゅみ具合も未熟はなはだしい。落とし蓋は単なる飾りか。何度にんじんを崩すか頑なにするかしたら気が済むのか。

他方で、過程の再現はままならずとも衝動の方は姿を消す。形状はどうであれ腹に収まればそれでいいらしい。だったら過程も気にするなと反駁してやりたいとこだが、やはりそういう問題ではないらしい。過程ありきの主題なのだそう。

そしてまた例によって悔しさが込み上げてくる奇怪。

大きくいうところの工作の範疇には興味がないくせに、筑前煮という枝葉には目を奪われてやまない。再現することに対してまでも。

──この不条理はいったい、何なのだろうか。

この記事を書いている人 - WRITER -
 

Copyright© 売れっ子Kindle作家 大矢慎吾 , 2022 All Rights Reserved.