2021/08/23

肉体からその宿命を奪うことについて

 

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所詮、肉体なんてものは消耗品である。なんて言うと、ちょっと横暴でしょうか。

しかし僕たちには、いずれ必ずお迎えがやってくるわけで、目の前に広がるこの世界が永遠ではないことは誰もが知るところです。そしてそこに滞在する間、お世話になっているこの肉体も同様に、その機能が永遠ではないことを僕たちは十二分に理解しています。つまりは使うほどに耐久度が着々と落ちていき、いずれは使い物にならなくなる消耗品らと同等ではないかと、僕は思うのです。新品で買った服が着用する度に型崩れしていくのと同じように。

自分の体を大切にする。という思考は、感謝の気持ちからくるものであると考えます。この体を授かったことに対する感謝の意。産んでくれた両親、あるいは諸々の信仰心や神心による偉大な存在に対する感謝の思いが、「粗末に扱ってはいけない」という思考に至らせるのだと思う。

そこまでは分かる。しかし、問題はそれ以降。

自分の体を大切にしようとするあまり、「使わない」という選択をしがちではなかろうか、とたまに思うことがある。

先の例でいうところの新品の服。

欲しくて欲しくてたまらなかった服をようやく購入できたが、大切にしたいという思いがあまりに強すぎて、一度も袖を通すことなくクローゼットに吊るしたままにしてしまう。絶対に汚したくない、絶対に失いたくないという寵愛の思いが、洋服を洋服でなくしてしまう。なにせ人様に着られることが洋服の至上命題であるのだから。

消耗品はいずれ使い物にならなくなる。それが消耗品の宿命。

その消耗品の宿命が、寵愛によってねじ曲げられた時、消耗品は、その誕生の意味を失う。なぜなら人様によって散々使われた挙句、燃やされ、灰になり、そして天へと召されるその道のりを辿ることが、消耗品としての役割を全うすることになるのだから。

消耗品から消耗品であることを奪うのは、それはもはや己のエゴなのではないか。と僕は思ったりします。

 

 

自分の体は大切する。けれども、あくまで消耗品であることを忘れたくはない。そんなことを考えながら、僕は、日々を生きている。

たとえその思考によって、社会と自分の間に軋轢が生ずるのだとしても、決して、手放すことはしたくない。

なぜなら、自分にとってのそれが消耗品であるのならば、他人にとってのそれも消耗品であるだろう。と思うからだ。

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