自己啓発でもなく、スピリチュアルでもなかった

 

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三十歳までの日々は〝適応への渇望〟といった様相を呈していた。

多様性が許容されるようになった昨今とは違い、我々の世代には「普通」という価値観が相変わらず権威を振るっていた。個性という不協和音は許容された枠のなかで奏でられるものであり、それは狂っているように聞こえてその実は基本的な旋律をしっかりとおさえていた。その逸脱は集団の者たちが笑える範囲のものでしかなかったのだ。

基本的に大きなミスを犯すことがなければおのずと枠に留まっていることができる。食ってさえいれば体は勝手に成長していくように、教育期間は時の経過とともに終幕に近づいていく。もちろんそれなりの努力は要するが血反吐をはくほどではない。求められるのははみ出さないこと、遅れないこと、そしてここぞの場面で口を閉じることだけなのだ。

ところが不憫なことに、この世には生まれがらにして逸脱をまとって誕生する子供というのがいる。外観的なものではなく内面的なもの。そうしたナチュラルボーン・個性ともいうべき子供にとっては、普通という枠から逸れないように日々を歩むことは、まさに血反吐をはくほどの苦心をともなう。

例えば、「善と悪」という概念は抽象的だけれども、その判別にあたっては迷うことがそんなにない。学校では道徳という授業があって、親も教師も口すっぱく「人が嫌がることをしてはいけない」と教えてくれるし、きっと「自分がやられたら嫌かどうか?」といった基準で判断していけばいいのだろうと想像がつく。それに法律だなんだといったルールも提示されている。それらに反することがなければ善を見誤ることはない。

しかし「普通」という概念(観念)は明文化されることがない。「正規」なんて授業があるわけでもなければ、教師や親がこれといった指南を与えてくれるわけでもない。こちらが質問したところで「いや、だいたい分かるでしょ?」と一笑に付されるだけである。

普通という枠は、その内に形成された集団の者たちからすると特段の説明を要さない概念であるらしい。それは空気という色のない膜を形成していて、感触を確かめることも、視認することもなく、その場その場において一目瞭然に認識できる境界線を形作っているとのこと。いや、そう聞いたわけではない。嘲りの言葉を総合するにそうした様相を呈しているようなのだ。

そうした枠に自分を適応させるべく奮闘した日々。まとめてしまえばいかにも陳腐に聞こえるが、本人にとっては神経だけでなく魂さえもすり減らすほどの懊悩を強いられた苦々しいものだった。

それから時が経ってインターネットが普及し、取り囲まれた情報の障壁が取っ払われるや、一部のあいだで普通に対する考え方は一変した。それは紛れもない「我慢」であるというのを白日の下に見たのだ。

以降、普通への渇望は資本主義社会における結果への渇望へと見事に変貌を遂げた。個人の時代というのは経済から始まったのではないかと個人的には思っている。その頃に最低資本金の規定が取っ払われたことも個人起業への追い風となっていた。

こうして普通という指針が失われると(最初からとっくに見失っていた)、新たなる指針が必要となってくる。起業という手段をとっていたこともあっておのずとそれを自己啓発に求めるようになった。スピリチュアルに傾倒していた時期もある。三者はいかにも相性が良いのだ。

それらは成功体験という名の自らの教義となった。照らし合わせて判断する思考の拠り所となったのだった。

 

 

己の意志によって自己の人生を変貌させる。そんな自己啓発やスピリチュアルの考え方に惹かれていた。

けれどもここ最近哲学書に触れてみて、自分が本質的に惹かれていたのは自己啓発な姿勢でもなく、スピリチュアルな態度でもなく、まさかの哲学な生き方であったのかもしれないと感じ始めた。

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