2021/11/27

苦しみは迷いからやってくるのかも

 

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今日も一日、ひたすらに読書。

画面を送りながら(電子書籍)気になった語句を辞典で引き、「そういう意味なのか」と感心してはまた、次のページへとスワイプすることの繰り返し。正しい表現で文章を綴るための、そしてその表現力を高めるためのいかにも地道なトレーニングではありますが、この一回一回の積み重ねが、いずれ血肉となって自身の作品の完成度を押し上げてくれることを信じています。神は細部に宿る、なんて言葉もありますし。

これまでにも幾度となく立ち止まって力をつける必要性を感じ、勇んでいた足を一旦止め、その場に留まりじっと自己研磨に努めてきましたが、今回も決して避けては通れない課題に直面しており、はやる気持ちをぐっと堪え、じりじりしながら日本語の山と向き合う日々を送っています。まるでその奥ゆかしさを思い知らされるようにして。

ふとした瞬間、こんな地味な作業に没頭している自分を、どこか俯瞰で見ている自分がいます。「おいおい、よくやっていられるな」と半ば呆れるような目で。いつか派遣のバイトで製本工場に従事した際、終始同じ動きの7時間に悲鳴を上げていたのと同一人物とは思えません。ただ聞いただけで気が狂いそうになっていたのに。延々と周回するベルトコンベアの音にではなく、「黙々と繰り返せ!」とがなる作業員のマイクの指示に。

人生を〝検証の機会〟だと捉える自分にとって、同じ動作を繰り返すのは、まさに苦行に等しく感じられてしまいます。せっかく与えられた機会を喪失しているような、残された時間をいたずらに浪費してしまっているような、どうにも勿体ない気がして辛抱たまりません。

そういった場面に直面すると、ふつふつと沸き上がる苛立ちを抑えることができず、いてもたっても居られなくなり、どうにか逃げ出せないものかとそんなことにばかり頭を働かせてしまいます。そのせいで集中力を欠いてしまい、結果として余計に拘束される羽目になる、というのがいつものオチ。目の前のことに集中しなければいけないのは分かっているけれど、どうにも心がいうことを聞いてくれません。まさに女性がいうところの「生理的に受け付けない」といった感じでしょうか。

ところが、執筆作業に関することには、耐えられます。どれだけ地味で地道な作業であっても。それがまさに「やりたいことをやっている」ということだと思いますし、また自分の道を確信しているということだとも思っています。本来の自分だったらやりたくないと拒否することでも、そしていつもなら逃げ出してしまうような場面でも、自ら好んで足を踏み入れていけるこの不思議。嫌な気持ちに変わりはないのですが、それ以上に諦めることに対して強い拒否感を覚えます。ゆえに、自然と肚が決まるのでしょうか。やるしかないだろうと。

あるいは、『迷う』ということが、苦しみにつながるのかもしれません。迷うからこそ躊躇が生まれ、足が止まり、痛みを感じてしまうのかも。学生時代の長距離走などでも、立ち止まった瞬間に息が切れ、胸の痛みにどうにも苦悶してしまったことを思い出します。あれ? 走っている時はそんなに苦しくなかったのになぁ、という。

ひたすら走り続けていれば、苦しみを感じる暇もないのかもしれない。迷い、立ち止まった時にこそ、感覚が働き、痛みという精神的苦痛がやってくる。だから神経に働かせる隙間を与えさえしなければ、いつまでもランナーズハイでいられるのかもしれないと、ふと、そんなことを思いました。

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