表現よりも大事なことがある

 

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前作の小説執筆からほぼ一ヶ月。表現を探究していかなければいけない、という発言から執筆が始まらないでいた。

なんだかわからないがモヤモヤする胸中、一歩を踏み出す気が起こらず、時間を浪費するわけにはいかないと編集や校正を学び、さらには以前から気になっていた「アイデンティティ」に関する本を読んだ。その寄り道のおかげで、創作家が自己を確立するためにはイデオロギーが必要であると知覚し、大型連休のさなか再び自分と向き合う時を過ごした。

そうして自身が純文学にのめり込んだきっかけに立ち返り、あの時に感じた希望、情熱を思い出し、小説を書きたいと思ったきっかけを再確認した。奇しくもそれは、人に影響を与えたいという想い、つまりはイデオロギーのプレゼンテーションだった。

自分の想いを人に伝える際、言い方やその伝え方というのは大事。どれだけ良いことを言っても言い方が陳腐だったり、伝え方が野暮だったりするとどこか気持ちが冷めてしまう。プロポーズの言葉に熱情を揺さぶられても歯に青のりが着いていたらすべて台無しなのだ。

それが現代のような飽食の時代とあっては尚さらで、ありきたりな表現では人は感動しない。推理小説の場合はそれが顕著で、少し前に台頭した「硝子の塔の殺人」なんかは気味が悪いほど面白い。もはやあれで天井、この先はもう違う魅せ方をしていくしかないだろうと、にわかミステリーフリークながらに思わせる完成度を誇っている。

だったら歴史の古い純文学に至ってはよほどの完成度でない限り受け入れてもらえないだろう、少なくともこれまでに無かった表現を魅せる作品でなければいけないだろう、そんな推測のもとに努力のベクトルを定めていたわけだけど、ここ数日でその考えは間違っているのではないかと思い始めた。

間違っているというよりも、順番が違っているのではないかと思った。表現はその先で、まずは内容とじっくり向き合うべきではないかと思ったのだ。

 

 

起業家時代、コピーライターのようなこともやっていた。

駆け出しのコピーライターがまず最初に考えるのは「うまいこと言ってやろう」という発想。商品のキャッチコピーやフレーズにおいて見る者の目を惹いてやろうと画策する。自身の表現によって消費者の感情を虜にしてやろうと誰もが企むのだ。

けれどもそうした意識で興した商品プロモーションは、得てしてコケる。その表現が見ている者の鼻につくからだ。

これは就活とよく似ている。

就活に取り組む者がまず最初に考えるのは「面接官に一目置かれたい」という発想だろう。他の学生と違うことを言ってやろうとか、気の利いたことを言って自分を印象付けてやろうなど、面接でいわゆる〝爪痕を残そう〟と画策する。

しかしそういった意識で就活に臨む学生はまずもって内定を得られない。企業側が求めているのは会社に従順な社員である、という背景はもちろんのこと、そもそもそういう粋がった若者は大人にとって鼻につくのだ。生意気であることが可愛がられることはあっても「相手を自分の思い通りに動かしてやろう」といった驕った態度がプラスに働くことはまずない。たとえその学生がどれだけ優秀で、どれだけ秀逸な返答をしていたとしても、その能力が相手に的確に伝達されることはない。むしろ優秀であればあるほどよりマイナスな印象に働くだろう。ほんとうに優秀な人間ならば、そこが能ある鷹は爪を隠す場面であることがわかるはずだからだ。

商品プロモーションにおいても、消費者の心理をこちらの思い通りに動かしてやろう、といった思惑がみえみえの広告は同様の理由で敬遠されると考えられる。逆の立場になってみればわかる。そんな粋がった商品、どれだけ良さそうに見えてもなんだか鼻につくから買わないでおいてやろう、と考えるのが人だ。

 

 

表現というのはあくまで手段に過ぎないのかもしれない。

大事なのはやはり内容。商品でいえば特徴、小説でいえば何を書くのか。それが無いものをどれだけ美しく魅せても読者の心に響くことはきっとない。まずは内容ありき、自分が書きたいこととしっかり向き合わないことには、表現の探究に進むことはできないはずだと、そんなことを今考えている。

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