2021/08/23

論語の洗脳「過ぎたるは猶及ばざるが如し」

 

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儒教こそが僕たちの自由を縛りつけている諸悪の根源である。

これは、揺るぎない事実だ。

中国の皇帝が国民を大人しくさせる為に活用した「論語」が、
日本人の穏やかな気質と相まってこの国の文化に深く根ざし、
そして今の僕たちの道徳心を形作っている。

その結果、現代を生きる僕たちは、
”自分たち自身で”自分たちの生活を窮屈にしてしまっている。

そのもっともわかりやすい事例が、
論語にある「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉だろう。

この言葉は、孔子の弟子・子貢が、
兄弟子二人の優劣について孔子に質問した際のやりとりとして記載されている。

子貢が孔子に、
「子張と子夏のどちらが優れていますか?」
と尋ねると、孔子は、
「子張はやり過ぎていて、子夏は足りない」
と答える。

そのため子貢は、
「ということは子張の方が優れているのですか?」
と再び尋ねたところ、孔子はかの有名な、
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
という言葉を弟子に述べたらしい。

まさに儒教の思想を象徴するようなエピソードだと思う。

もしもこの言葉を見て”まさにその通りだ”と感じた人は、
一度冷静になってみてもう一度この言葉を眺めることをオススメする。

果たして、本当に「過ぎたること」は悪いことなのだろうか?

 

 

現実社会における”周りの反応”は孔子の言葉通りだと思う。

つまり、やり過ぎる人は得てして周りから嫌われやすいということだ。

だから「他人から好かれるかどうか?」という観点からすれば、
まさに過ぎたることは及ばざることよりも劣っているといえる。

及ばない人間は他人から怒られはするものの、
きっと周りから嫉妬の対象になることはないだろうし。

けれどもよく考えてみてほしい。

周りに嫌われることはそんなに悪いことなのだろうか?

自分に自信をもつことがそんなに悪いことなのだろうか?

他人の目ばかりを気にして自分の思いを押し殺し、
やりたいことを我慢したまま人生を終えることが本当に良いことなのだろうか?

 

・・その答えは、僕のメッセージを読んできたあなたなら、考えずともわかるはずだ。

 

僕たちの魂は、
ここでしかできない体験をするためにこの物質世界を訪れている。

そして幾度にわたる輪廻転生を繰り返し、
肉体を乗り換え、人間関係の形を変えながら、
様々な体験を通して自分自身(魂)を成長させている。

だから僕たちにとっては、
人生における『体験』こそがもっとも尊いものだといえる。

そしてその体験には、別に善も悪もないはずだ。

やり過ぎてしまい周りに迷惑をかけたことも「体験」だし、
やり過ぎて想像以上の成果をあげてしまったことも「体験」だ。

どんな体験であっても魂の成長にとってはかけがえのないもの。

何一つとして”ダメな体験”などありはしない。

だからこそ、体験を制限する必要などないはずだ。

やり過ぎては良くないからと、
自己判断でその勢いを緩める必要などない。

過ぎたるくらいに思いっきりやってしまえばいいのだ。

それがどんな体験になったとしても、
僕たちの魂にとっては成長のきっかけとなる。

そこに優劣なんて存在しない。

ましてや、他人にその優劣を決められる筋合いなどあるはずもないだろう。

 

 

自分の人生よりも周りからの評価を優先するなんてあまりに勿体ないこと。

そんな邪魔な足枷など外してしまえばいい。

過去の偉人が意図せず施してしまったこの国の呪縛から、僕たちの自由を解放させよう。

 

そもそも出しゃばる人間が周りから嫌われてしまうのも、
論語に「それは悪いことだ」と書いてあることがそれを誘引しているのだ。

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