2022/12/27

谷崎・芥川の芸術論争に関連する、文学の芸術について

 

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少し前の谷崎潤一郎氏の分析において、文学における芸術は『絵画的芸術』と『建築的芸術』とに大別される、と私は明言していた。そして谷崎潤一郎氏は絵画的芸術に、芥川龍之介氏は建築的芸術に属する、とも。

この時はまだ谷崎・芥川の芸術論争の概要しか知っておらず、両文豪の分析を終えた今あらためて上記に言及しておく必要性を感じた。部分的に参照した場合に齟齬が生じる懸念があったので。

まず私の考える文学の芸術について、ここにあらためて定義を示しておきたい。

文学の芸術は以下の二つに大別される。

『絵画的芸術』──読書することで抱く心象の美しさ如何によって芸術を表現している感がある。いうなれば〝視覚で感じる美しさ〟といったところか。

『建築的芸術』──言葉の配置や使い方の妙で耳に響く音の美しさ如何によって芸術を表現している感がある。上記に対するならば〝聴覚で感じる美しさ〟といったところか。

いろいろと考えてみた末にけっきょく以前の説明がしっくりきた。もっと適した表現が浮かんだら都度変えていくつもりだが、今のところはこの定義をもとにお読みいただければと思う。

 

 

谷崎・芥川の芸術論争は谷崎氏の主張から始まった。

芸術の如何について尋ねられた氏は、「文芸における芸術性は話の筋の面白さによって付与される」と答えた。後にこれを『構造的美観』であるとしたうえで。

谷崎氏によると、構造的美観とは「物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさ」であるとのこと。そして「およそ文芸において構造的美観を多量に持ち得るものは小説だ」と加えた。そしてまた「日本の小説に最も欠けているところは、この構成する力、いろいろ入り組んだ筋を幾何学的に組み立てる才能にある」とも。

この主張を読んだ芥川氏は、「話の筋というものが小説の芸術性に寄与するのかどうか、甚だ疑問だ」と真っ向から批判を与えた。そして相手に対抗するように「話らしい話のない小説にも十分な美観が内包されている」と主張する。

芥川氏のいう話らしい話のない小説とは、「通俗的興味の乏しいもの。もっとも詩的な小説」なのだという。そしてそのうえで、「詩的精神の深浅は小説における美観を左右する」と結んだ。

これを受けた谷崎氏は、芥川氏の批判に理解を示しつつも、「彼の論評はいまいち要領を得ていない」「話の筋の面白さに対する彼の攻撃は、あるいは、話の組み立てではなく、話の材料の方に向いているのではないか」との反論を示した。耽美を追究する谷崎氏の作品が放つ〝不道徳性〟を相手が好まないのではないかと推量した可能性が窺われる。倫理的な傾向にある芥川氏の作風と自身とを対比させたのだろう。

谷崎氏の反論に対し、芥川氏は「谷崎氏の作品が用いる材料に対し私は少しも異存はない」と相手の推量を否定した。そもそも両者は論争中にも連れ立って舞台を見に行くほどの関係にあり、この議論に個人的な好みの介入はないものと考えられる。

そして「とりあえず、およそ文芸において構造的美観を多量に持ち得るものは戯曲であろう」と返しつつ、「僕が言いたいのは材料を生かすための詩的精神の如何だ」と補足を加え、谷崎氏の初期の作品に見られた詩的精神の豊かさに触れたうえで「大いなる友よ、汝は汝の道にかえれ」と結んだ。ちなみに芥川氏は谷崎氏の文章をスタンダールよりも名文であると評している。

※両者ともに「これが小説の芸術性を決定づける要素だ」などとは主張していない点に留意されたし

けっきょくこの論争は渦中に芥川氏が逝去してしまったことで決着を見ぬままその幕を閉じた。以降、この「話の筋の面白さ」についての議論は〝純文学か娯楽小説か?〟などのテーマをともなって度々引用されてきた様子。察するに、ある時点以降この論点が小説の文学性を左右する点として見られるようになったからだと思われる。後述するようにここで詳しく述べることはしないが。

というわけで両者の芸術論争は平行線のまま終わっていて、私もこの議論自体に自分の意見を加える意思は毛頭ない。未だ処女作すら上梓していない作家が知ったような顔をして空論を述べ連ねるなどお間抜けでしかない。この議論は実際に創っていてこそ発言に音が伴う。ゆえに前述を含め、またいつか時機をみて記すつもりでいる。

ちなみに芥川氏もこの議論の最中、自身の主張を言語化することの困難さを語っていた。つまりはかの文豪も難儀するくらい、文芸における芸術の何たるかを定義づけようなどというのは懊悩をともなう難題なのだ。

 

 

この場で重要なのは谷崎氏の使った『構造的美観』という表現にある。

「物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさ」

この説明ばかりを読むと、まるで私の示した『建築的芸術』を指しているかのように感じられることだろう。語感が合っているうえ、内容的にも氏の言にまま建築的とある。

してみると谷崎・芥川の芸術論争を参照するに、谷崎氏の作品群は建築的芸術に、そして芥川氏の作品群は絵画的芸術に属するのではないか? といった訝りが生ずることが高く予想され、逆をいった私の主張はとんだ的ハズレだと嘲りに至るのは必定である。

ところが、氏の主張を順当に読んでいけば分かるように、谷崎氏のいう構造的美観とは、小説における物語の構成のことをおそらく指している。

物語をどのような順番で語るのか、どこにどんな内容を盛り込むのか、そうした作品の〝構成の妙〟に文芸の芸術性が内包される。──全体からするとおそらくこのあたりに言及しているものと思われる。

「話の筋の面白さ」とは、あるいはストーリー性を指しているのではなかろうか。今現在においてはストーリー性に富んだ小説は娯楽ものに多く見られ、それを純粋な芸術と呼べるのかというと少し疑問に感じてしまうものの、しかしこれが推理小説すらままならなかった大正期であったならどうだろう。発言の背景となる業界の様相が今とは随分と異なっており、してみると氏の放った言の意図もまた違った趣を見せてくる。それが「前衛的」という創作態度に映るならあるいは芸術性も生じうるとも考えられる。

いずれにしても、谷崎・芥川の芸術論争において言及された谷崎氏の構造的美観と、私のいう建築的芸術・絵画的芸術の主張とは、その言及するところがまったく異なる論であることをここに明言しておきたい。決して見た目の語に惑わされることなかれ。

 

 

最後に『絵画的芸術』『建築的芸術』をもう少し掘り下げて考えてみようと思う。

やはり言葉にするのは困難なものの、両者の分類はおそらく、言語化された言葉に作者の手がどれだけ加わっているかの違いによって生じるのではないかと考えられる。端的に言えば、建築的芸術の方が、他方よりも一層作者の手が加わっている様を示す。

小説の創作にあたっては元となった素材が存在する。主にそれは自身の体験や集めた情報であるが、そのいずれであっても言葉として顕現させるのは作者であり、実質的に素材がそのまま素材として文字に成ることはないのだといえる。なぜなら、それが言葉に成った時点で、もはや作者というフィルターを通っているからだ。

絵画的芸術に属する谷崎氏の小説は、素材そのものが言葉に成っているような印象を受けた。その用いる素材が美しいがゆえ、そしてまた素材の組み合わせが美しいがゆえに、生み出す作品が芸術と化していた感がある。

対して建築的芸術に属する芥川氏の小説は、素材に相対した己の感性より出でてきた言葉が用いられているような印象を受けた。その感性が鋭いがゆえ、そしてまた言葉の採択が巧妙であるがゆえに、生み出す作品が芸術と化していた感がある。

両者の違いはすなわち、素材が言葉に成る段においてどれだけ作者の手が介入されるかの違いなのだといえる。

美たる素材そのものを活かそうと志向するのなら、創作家は素材の美しさが引き立つよう組み合わせの妙を思案する。料理でいうところのできるだけ素材そのものを活かそうとする発想か。

素材を再定義することによって美を生み出そうと志向するのなら、創作家は加工の妙を思案する。料理でいうところの調理の仕方で素材を活かそうとする発想か。

そういった意味で谷崎氏の作品は純粋な芸術の創作物に近く、つまりは絵画的芸術に属すると私は考える。そして作者の手がより介入される芥川氏の作品は加工による芸術、つまりは建築的芸術にあたると考えるのだ。

⋯⋯掘り下げてみたものの一向難解を極めるばかりではないか。

やはり法律がそうであるように、どこまでいっても『言葉』は万能ではない。感覚的なものを言葉で説明するなど所詮は努力目標の域をでない。芥川氏ですらそうだったのだから。。

ひとまず現時点ではこれくらいの説明に留まった。今後さらに分かりやすい表現、適切な言葉が見つかり次第更新していく所存。

ただそれでも文学における芸術は『絵画的芸術』と『建築的芸術』とに大別される。この考えは間違っていないと私は確信している。

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