2022/05/28

責任は自分。なのに、出来事は他人

 

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殺人的な日差しの強さに戦々恐々とする日々。わずか30分外出しただけで手が真っ赤に。グリルに乗せられた魚の気分を味わう。

少しずつ、でも確実に、世界が動き出している様子が見てとれる。ウィルスの出現によってしばし停滞していた歯車が再び回転を始めたよう。各国首脳は相次いで会談を交わし、我々の生活ではマスク要件が漸次的に緩和しつつある。まさしくそれは元の生活への回帰を匂わせるもの。

世界中の人間の〝共通の敵〟による猛威が影を潜め、そして共同体意識が再び薄れていったとき、我々の意識にあがる次なる相手は一体誰なのだろう? あるいは「何」なのだろう? 昨今の事情からして国だとか云う人もいるかもしれないけど、国は社会同様、そこに人が集まって形成されている〝現象〟を指した名詞。つまり国は人だということ。要するに、相手は人。これまでのウィルスによる影響もそうだけど、詰まるところ、それらの問題は「人」なのだという話に帰結する。

ネット社会がいくら発展を遂げようとも、今後仮想空間での交流が主流になっていこうとも、けっきょくはこの「人」の問題に直面する。荒らしがいたり、自分本位な者がいたり、無法者がいたりなどして頭を悩まされる。そこに人が集まって生活を営んでいる限り、こうした問題が起きるのは避けられないのかもしれない。どこまでいっても人、人、人──その事実から目を背けて生きていくことはできない。

しかし、それなのに、人生は一人一人固有の体験となっている。人は必ず最後一人で死んでいき、その絶対不可避の運命とは自分一人で向き合わなければいけない。なぜなら誰も代わってはくれないし、代わることはできないからだ。ゆえに最期の瞬間に対しては己の心一つでもって決着をつけなければいけない。「この人生はどうだったのか?」その問いに対する答えを⋯⋯。

人生に対する責任をとれるのは自分しかいない。謝罪、補償、保証、そのような他人の形式上の行為に意味はなく、起こった出来事に対する心の決着をつけられるのは、自分だけ。人のせいにするのは簡単だけど、きっと虚しくなる一方に違いない。どのみち起こったことは、もう、起こったのだから。

とはいえ他人の意思は変えられない。他人の行動を自分の意思でコントロールすることはできない。つまり、他人の行動によって起こった出来事を我々はコントロールができないということ。起こる出来事は、自分で選べないのだ。

責任は自分。なのに、出来事は他人。まったく理不尽極まりない話だ。

どうして人生に起こる出来事を自分では選べず、そのすべてを他人に委ねるしかないのだろうか。それだったら他人に責任をとってもらいたい、って話だ。最期の瞬間を代わってもらうなどして。

しかしそれは叶わない。他人に起こされた出来事によって、その責任をとらされるのは、自分なのだ。それが、人生。そんなクソったれに理不尽なのが、人生。まったく嫌になっちゃうぜい。

土台、人生なんて理不尽そのもの。そのことをいくら嘆いていても仕方がない。

理不尽を受け入れて、そのうえで自分の責任の範囲で行動していくしかない。今日、自分は何をするのか? ただそれだけに力を尽くすしかない。

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