2022/06/26

資本主義社会の行く末に待ち受ける社会

 

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難解、難解。どうして兆しを感じたのかがわからない。船を出したところで釣果がほぼないのは目に見えていたはず。あるいはこの方面は諦めた方がいいというのを確認するためだったのか。別に、云われるまでもなく認識しているつもりだけど⋯⋯。

強いていえば「商品」についての考察は興味深く読み進めることができた。

マルクスの資本論は商品についての考察から始まる。これは最初にして最大に難解な項目で、その説明はあまりにも抽象的で掴みどころがない。ほとんど文学の読み物にあたっている気持ちになる。しかも比喩表現が多用された読解にいちいち手間取る(面倒臭い)書物。

いかにも浅はかな思考だけど、「貨幣が誕生したのは物々交換を便利にするためだ」とする考え方がある。安直で、短絡的な考えには違いないのだけど、それでもそれなりの蓋然性は感じられるし、歴史的に見ても結論はそういうことなのかもしれない。あるいは小難しい理屈を省いて端的に表現すれば〝便利〟の一言で片付けられるような気もする。それが答えなのではないかと。

しかしその思考でいるうちは資本家の企みに気づくことはできない、とマルクスは云う。なにせ資本論の最終目的は、近代社会の経済的運動法則を暴露することで次なる社会構造を形成するための生みの苦しみをやわらげること、にあるのだから。そのためにもまずはもっとも基本的な「商品」についての考察から始まったとのこと。

──商品には個人の「労働の価値」が含まれていて、その労働の価値と引き換えに、人は必要な商品を自分に獲得する。この商品交換によって人は社会的な生産活動を行なっている──

個人的にはこのように解釈した。結論のみなのでいかにも乱暴に映ってしまうだろうけど。

事実、我々は社会に労働力を提供することで貨幣を獲得し、得た貨幣を使って、自分に必要な物を購入している。仮にこの媒介役を担う貨幣を省いたならば「労働と商品を交換している」というシンプルな構図が浮かび上がる。もちろん現実にはあり得ないけど。

資本主義では生産活動こそが社会貢献を担う。人は労働によって生産活動に寄与する。しかし、労働=社会貢献という公式は無条件には成立しない。なぜなら生産活動の結果である商品は、人に必要とされるもの、つまり「価値」のあるものでなければ他の商品との交換可能性を満たすことができないため(要するにお金にならないってこと)、価値のある商品に関連する労働こそが社会貢献を果たすということになる。

ということは、自身の労働によって自分が必要とする商品を獲得できた(労働→お金→商品)ということは、自身の労働が社会に貢献を果たしたことを表しており、資本主義社会においてはこのような【(労働)商品⇔(消費)商品】という交換活動を通してしか、自身の社会貢献の度合いを確かめることができない。ということであるらしい。

こんなことが分かったところで何になるの? というツッコミはまさに私自身が自分にしたわけだけど、読み進めていった最後の最後にその答えらしきものがあった。

資本論では、資本主義による生産活動がいきつくところまでいけばその社会構造は崩壊せざるを得ない、と説く。そしてその先を担う可能性のある形として、マルクスは『自由なアソシエーション(共通の目的や関心をもつ人々が自発的に作る集団や組織)にもとづく社会』というものを提唱した。

まさに現代は資本主義がいきつくところまでいきついた感がある。経済学者曰く、もはや世界の大国の経済は停滞状態にあるらしい。発展の可能性を見失っているとのこと。

だとすれば、まさに今こそ〝次なる社会構造〟が生まれる土壌が形成されたといえるのかもしれない。我々は、その可能性の時代に生まれ、そして生きているということ。

個人的には「自由なアソシエーション」はそのうちの一つの例に過ぎないのではないかと思う。そのような明確な〝結びつき〟がなくとも、実質的に共同して活動する『個人(ひとり)』というものも存在するのではないかと思う。そしてまた、そのような存在が誕生しつつあると私は感じる。一人で生産活動を行いながらも社会との結びつきを感じられる活動。そしてそのような活動を行う人物たちの台頭。

実は、私が公式ホームページのタイトルに『ひとり』という言葉を用いているのにも、そのような思いが込められていたりする。

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