2023/04/21

赤と白 <4>

 

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 改札を出ると駅の前は広場のようになっていた。駐車場はなく車は駅の手前までしか侵入できないため、おのずとこの広場が待ち合わせ場所になるようで、あちこちに相手を待つ男女の姿が散見された。

 はにかんだ様子で男がこちらに手を挙げた。その姿を見つけると私は駆け足で男のもとへと向かった。

「待たせてごめんね」私が言うと男は全然大丈夫、と微笑んだ。少し怯えたようないびつな笑顔だった。相変わらず曲がった背中が陰鬱さを上塗りしている。

 とりあえず歩こうと私たちは舗装された河原の土手を進んだ。すでに視線の先には鮮やかに色づいたもみじの木々が映っていた。今週末がもっとも見頃です、と言っていたアナウンサーの言葉は本当だったようだ。

「アユミの方から誘ってくれるなんて珍しいね」男は言った。いつも自分から誘っては断られ、懇願するとようやく会いにくるような私が、デートの誘いを、しかも一般的な男女がするようなプランでもって提案してきたことに、男はかなり興奮しているようだった。

 ここで私は「遊助くんと観たかったの」と、あえてわざとらしい台詞を口にした。これが要点であることを強調するように、立ち止まって少し間をおいてから、普段よりも音量を落として声に出した。

 振り返りざま不意にそれを浴びた男は、途端に目を大きく見開き、その場でしばし固まってしまった。まさしく〝雷に打たれたような〟という形容そのままの様態だった。恋愛ドラマのような典型的な演出の方が効果的だろうと目算を立てていた私は、自身の嗅覚にあらためて称賛を送った。

 衝撃に浸る男を置き去りに、私は男を追い越して先を歩いた。その動作が照れ隠しのように映ることも私は計算していた。男が横に追いつき、私たちはしばらく無言のまま土手を歩いた。その間に男のなかで妄想がどんどん膨らんでいっているのを私は知っていた。どうやら、これまでとは局面が一変したことを男に印象づけることには、成功したようだ。

 前方にあらわれた橋を渡っていると欄干に寄りかかって自撮りをしている男女がたくさんいた。ちょうど背景に美しく色づいた山が映るようだった。混雑している橋の真ん中の手前で立ち止まり、私はコートのポケットに手を入れた。風景を撮ると思っているのか、男は一歩退がって待っていた。

 スマートフォンを前方に構えて「早く入って、遊助くん」と私が言うと、男はかなり驚いた表情を浮かべた。新垣アユミが写真嫌いだと信じ込んでいるからだろう。 

 隣に並んだ男はおずおずとこちらに顔を寄せてきた。私は男の肩をつかんで引き寄せると、ごっつんこする勢いで男の頭に私の頭を擦り寄せた。男の顔が電気ポットのように沸くのがわかった。私は構えたスマートフォンを上へ下へと傾けたり、シャッターの部分に指が届かないといった素振りを見せたりした。不慣れさによって辻褄を合わせる意図もあったが、この状態をできるだけ長く男に体感させるためでもあった。これほどの接近も、接触も、私たちにとっては初めてのことだった。画面に映った男の顔はうしろの比ではないくらい紅く染まっていた。

 橋をわたるとその先一帯は観光地になっていた。道には食べ物屋や土産物屋が軒を連ねていて、歩く人々を呼び込む活気のよい声が方々からあがっていた。遠くの方には人力車が走っているのも見えた。何度も目にしたその光景に「これは迷っちゃうね」と私はいかにもはしゃいだ様子の声をあげた。男は初めてだったのか足を止め間の抜けた感嘆の声をあげている。

「あそこのお煎餅屋さんが美味しいらしいよ」私は先導するように歩き出した。男もあとをついてきたもののすぐに人混みによって私たちは分断されてしまった。私は立ち止まって男を待つと、「はぐれたらどうしよう」と不安そうな表情を浮かべ、うつむいた。すると男は〝ここだ〟といわんばかりの勢いで私の左手を取り、「大丈夫だよ」と言って握った手にぎゅっと力を込めた。その加減のわかってなさに反射的に浮かんだしかめっ面を伏せ、私は急いで顔に恥じらいの色を作った。そしてそのまま男と目を合わせないように歩くことに努めた。

 いらっしゃいと迎えられた店には十種類以上の煎餅が陳列されていた。表面に塗る液やまぶす粉によって味付けが変えられている。「どれがいい」男に聞かれ、私はスタンダードな醤油を指差した。男が財布を開けているところから離れて立っていると「はい」と顔の前に袋が差し出された。「ありがとう、嬉しい」私は贈り物を喜ぶ少女のような笑顔を見せた。男がこの前会った時に「アユミの守護天使になる」と言っていたのが脳裏によぎった。

 脇道にそれて立ち止まり「ここで食べていい?」と男に確認してから私は煎餅にかじりついた。「美味しい」と満面の笑みを浮かべて、「遊助くんも」と男の顔の前にそれを差し出した。煎餅にかじりつき「めっちゃ美味しい」と男が言っているところに「私も私も」とせがんだ私は、男の手元にそのまま口をもっていってぱくりとかぶりついた。「ほんと美味しいね」私が顔を向けると男は、はにかんだ様子でこくんと頷いた。

 食べ歩きの品をいくつか買い二人で共有しながら楽しんだあと、私たちは街の中心部にあるお寺に向かった。そこは由緒あるお寺らしいけれども詳しいことはよく知らない。一般に開放された敷地に広くもみじが咲き誇っていて、紅葉を見にきた客たちにはここが定番のスポットになっていた。入り口の門をくぐると案の定、色づいた木々を背景に写真を撮る人たちで溢れ返っていた。

 敷地内をひととおり散策して庭に出ると自撮りに難儀している中年の夫婦が目についた。「よかったら撮りましょうか?」私が提案すると夫婦は喜んだ様子でそれに応じた。似たような顔をした男女が並んでフレームに収まっていた。「どうでしょうか?」確認するとバッチリです、と夫婦はとびきりの笑顔を見せた。そして「あなたたちも」と促されたので私は自分のスマートフォンを手渡した。

「私たち、どんな関係に見えてるかな」男の隣に並んでぼそりとつぶやいた。「ど、どうだろうね」男はあきらかに緊張している様子だった。

 じゃあ撮りますよ、はい、チ⋯⋯くらいのところで私はぶさ下がった男の手をぎゅっと握った。男の体は一瞬びくりとなって弾んだ。「ありがとうございます」撮られた写真を見てみると、男は後ろからカンチョーされたみたいな顔で写っていた。

 ぶらぶら歩いていると雑貨屋のような店の前にきた。「ちょっと寄っていいかな」私たちは店内へと足を踏み入れた。

 土産物や手作りの小物などがいくつも置かれていて、男と手を繋いだ若い女がかわいいと悶えていた。私は食品サンプルがくっついたキーホルダーを見つけるとそれを手にとった。男が「かわいいね、それ」と寄ってきて、「二人でお揃いにしようか」と私は箱のなかを物色しだした。

「どれがいいかな」みかんやにんじん、親子丼や寿司などを手にとって眺めていると、男が茶色い唐揚げをひょことつまみあげた。「好きなの?」聞くと男は「うん」と少年のような笑みを浮かべた。「だけど可愛くないね」と箱に返そうとする男を制し、「これにしよう」と私はレジに二つ持っていった。

 歩道に出ると昼過ぎのピーク時間だからか人の波はかなり混雑さを増していた。ちょっと休憩しようと私たちは路地の奥にあった二階のカフェに入った。

 表からはあまり目立たないのか意外にも空いていて、私たちはすんなりと窓際のテーブル席に案内された。窓からはびっしり歩道を埋めた観光客たちの頭皮を高みの見物できた。

 なんとなくそれっぽい、ということであんみつを二つ注文し、先に出てきたコーヒーに口をつけた。店内には落ち着いたジャズのBGMが流れていた。

 男は小さな袋から唐揚げを取り出して愛おしそうにそれをじっと眺めていた。私も同じように唐揚げを手にとって眺めた。ほんとうによくできているものだと思わず感心してしまった。衣の細かい凹凸と油の照り具合が絶妙だったのだ。

「一生大事にするよ」男は言った。男の目はじっとこちらを見つめていて、それは暗に何かを伝えているようだった。この意味わかるよね? そういった様子の男の視線を真っ向から受け止め、「私も」と頷き、柔らかい微笑みを相手に投げた。

 いらっしゃいませ、一人の男が入ってきて横の席に座った。それと同時にあんみつが二つテーブルに運ばれてきた。

「めっちゃ美味いじゃん、これ」大袈裟に言う男に合わせて頷いた。それよかこの唐揚げをつまみにビールでもいきたいところだと私はぼんやり考えていた。あんみつの甘さは、男の素直さと相まってなんだか胃もたれしそうだった。

 カップにちびちびと口をつけていると、あんみつを食べ終えた男があらたまった顔をした。

「アユミ──」続く言葉を思案しているようだったが、首を横に振り「いや、形式にこだわるなんて野暮だね」と男は言った。私は手にしたカップをソーサーに乗せて男を見た。

「僕がどれほどアユミを想っているか、それは今さら言うまでもないことだと思う。何度も重ねて言うのはしつこいだろうし、口にすることでどんどん軽くなってしまうのも僕は嫌なんだ。言葉なんてのは薄っぺらで安っぽくて、大して価値はないものなんだ。にも関わらず、こうして胸の内を相手に伝えるためには、人は言葉を用いるしかない。そのことを、僕は、とても残念に思っているよ」

 男はまるで何かの役に成りきっているようだった。私はテーブルの下で自分の太ももを強くつねっていた。

「前回会ったときに僕はアユミの守護天使として生きるんだと宣言したよね。常にアユミの近くにいて、アユミに何かあったらすぐに僕が出ていって守れるようにすると」

 私はこくん、と頷いた。

「その使命は、今日という一日を過ごしたことによってより高い次元のものへと昇華されたようだ。ただ近くにいて守護するだけに留まらず、これからはより積極的にアユミの人生に関与していくべきであるようだ。そしてこれまで以上に直接的な影響をアユミに与えていかなければならないようだ」

 男は陶酔した様子で物語った。その口調はまるで唄っているかのようだった。

「それと同時に僕の肩書きもおのずと昇格させなければいけないようだ。もはや守護天使と称するのは適切ではないだろう。これからは導きの天使として、僕は、アユミの手をとってこの先の人生を先導していかなければならない。ねえ、そう思うだろう? アユミ」

 返答する代わりに私は微笑みを男に投げた。これまでも確信的な問いに対して、頷くことはしなかった。

「僕はようやく自分の使命に目覚めたよ。そうだ、このために僕はアユミに、いや、僕たちは出会ったんだ。コンビニの店員とその客、まったく奇跡のような出会いだったけれども、これはむしろ、必然的な巡り合わせだったんだよ。いつかそうなると決まっていた、そのいつかが、ついに訪れただけだったんだ。ここまでお互いにほんとうに長かったよね。でもこれでようやく行き着くべきところに着いたんだ」

 男は自分で納得したようにうんうんと頷いた。

「気づかせてくれてありがとう。僕は決して、アユミを裏切ったりはしないからね」

「ありがとう」そう言うと私は店の時計をチラと見て「時間、そろそろじゃない?」と男に言った。

「あっ、いつの間にこんな時間経ってたんだ。早いなあ。あーあ、バイトだるいなあ」

「遊助くんは店から信頼されてるから。頑張ってきてね」

「うん。じゃあ出ようか」

「ううん、私はもう少しここにいるよ。せっかくだから夕方のライトアップも見ていこうと思って」

「そっかあ⋯⋯一緒に見れないのが残念だよ」

「大丈夫、またいつでも見に来れるから」

「──うん、そうだね」男は噛み締めるように言うと、「じゃあ」と立ち上がって店を出ていった。窓ごしに小さくなっていく男の背中に私はいつまでも手を振っていた。

 カップに口をつけ私は冷めたコーヒーをすすった。そしてスマートフォンの写真フォルダを開き、履歴から画像を選択して削除した。しながら、テーブルの上の唐揚げを左手でぐっと掴むと、その手をおもむろに横の席に伸ばした。

「あげますよ」ぱっと手のひらを広げ、相手に向かって突き出した。男は無言でそれを受け取った。

「これがあなたの知りたかった私のB面です。よくわかったでしょう?」私は前を向いたまま、これまでの一部始終を見ていた男に向かって言った。

「相手は彼だけはありません。あんな感じで私を求めている男が常時私のまわりには複数人います。そして私はそのうちの誰とも関係を結ぶことなくその状態を楽しんでいます。相手が苦悶する様子をいつまでも楽しむためにね」

 手にしたカップを飲み干すと、私は勢いよく立ち上がった。

「新垣アユミはあなたの思っているような女ではありません。はやいところ真っ当な相手を見つけてください」

 斉藤という男に真実を突きつけると、私はそのまま振り返ることもなく、店をあとにした。

 

 

 

 沿道に色褪せた落ち葉が敷き詰められているなかで、私は今日も、せっせと善行に興じていた。公園には各種行楽イベントによるゴミがあちこちに散乱していた。

 参加者の一人に見知った相手がいることに私は気がついていた。向こうも私のことは認識しているはずだ。

 あれ以来、彼は、私への連絡を断っていた。もともと私から相手に連絡することはなかったので、今は事実上の関係断絶の状態にある。私にとってはこれで良かったと思っているし、彼にとっても良かっただろうと思う。異性に対する気持ちは盛り上がる前に鎮火できるにこしたことはない。それがもっとも心身へのダメージが少なくて済むのだから。

 沿道に生えた木々の衣はすっかり落ち、今にも朽ちそうな細っこい手足を広げ、この寒々とした空の下に素肌をさらしている。いかにも寂しげなその光景に、なんだか私は無性に清々しい気持ちを覚えた。とても潔いと思ったのだ。

 何一つ期待していなかった、と言ったらやはり嘘になる。私も私自身のA面とB面が統合するのを想像したりしていた。あるいはその可能性もあるのかもしれないと期待したりもしていた。そしてそれは、そのまま相手に寄せた期待を意味していた。

 けれども真実を見せたら、相手は予想通り、幻滅したようだった。それはそうだ、誰だってこんな悪女を前にしたら嫌悪感を抱かずにはいられない。私自身でさえそう思うくらいなのだから。

 自分なりの誠実は果たした。その結果なのだから、後悔はしていない。

 敷地の中心にゴミ袋を集めて今日の会は終了した。そろそろ雪の季節だな、と私はぼんやり考えていた。そうなると善行もしばらくは休業期間に入る。会自体がほとんど開催されなくなるからだ。

 それは同時に『私』の存在もしばし影を潜めることを意味していた。

 一般に年末年始は男女の遊戯にとって特別な意味をもっている。そしてその特別な時期に一緒に過ごす男女というのも、お互いにとって特別な意味をもってくる。この時期の各種イベントを家族と過ごす人もいるくらいで、それらが有する重要性や価値が他とは一線を画していることが窺える。

 そのためにゲームとして楽しむには、ちょっと〝重い〟のだ。相手に与える失恋の痛手も平常時よりも深くなり、敗れたはずの私への想いもかなりと尾を引くようだった。

 過去には何度かストーカー被害に遭ったこともあり、私はこの特別な時期における男との遊戯を意識的に回避するようにしていた。色づいた葉が落ちるとともにシーズンで遊びに興じた相手との関係も断つようにする。そうやってキレイに精算したうえでまた来年からの遊戯に備える。それが、もっとも健全なるこのゲームの楽しみ方だった。とにかく女々しい男が起こす面倒に巻き込まれるのは御免なのだ。

「アユミさん」

 呼びかけに振り向くと、そこには斉藤さんが立っていた。

「何かご用ですか?」

 私は冷ややかな視線を投げた。今さら文句でも言うつもりなのだろうか。

「ちょっと付き合ってくれませんか。そんなにご足労はかけません」

 斉藤さんは噴水のそばにあるベンチを指差した。その顔はいかにも怒っているように見えて、私はまた面倒に巻き込まれる予感を感じていた。

 

 

 

 木枠のベンチは冷たくてお尻が少し痛んだ。帰ってさっさと汚れた体を洗い流したい気分だった。

「あれからずっと連絡していなくてすいませんでした。俺なりにいろいろと考えていたもので」険しい顔をした斉藤さんが切り出した。

 私は「いえ」と答えながら、それは当然だろうと思っていた。こちらとしても関係を半分辞去したようなものだったのだ。

「正直言ってショックでした。言葉でどれだけ言われても信じていませんでしたが、実際に目の当たりにしたことで、真実を受け入れないとダメなんだと思いました」

 やはりこの人は私の人物像を勝手に作りあげていただけだったようだ。

「はっきり言って嫌な気持ちになりました。いえ、本音を言います。マジで吐き気を覚えました」斉藤さんは前を向いたまましかめっ面を浮かべた。

 言われた私は思わず吹き出してしまった。自分で自分のことを認識してはいるものの、面と向かってあらためて言及されると、やはり傷つかないこともない。そちらで勝手に私を美化していただけなのになぜ疎まれないといけないのか。不愉快に思ったものの、とりあえず最後まで話を聞いてやろうと、私は立ち上がるのを思いとどまった。

「相手を殴るとか、脅すとか、暴力で人を傷つけたくなる気持ちは俺にもわかります。その根底には自分でも制御しきれない苛立ちや鬱憤があるような気がします。けれども純粋に恋心を抱いている相手をたぶらかせて傷つけるのは、それは、マジで酷いことですよ。体を傷つけられるよりもよっぽど深い傷を心に負わされると思います」

 斉藤さんはこちらに顔を向けた。その顔には悲痛な色が浮かんでいた。

「アユミさん、あんなこともうやめてください。中毒になってるんだったら抜けられるまで俺がとことん付き合います。今日から一緒に新しい人生を始めましょう。俺、マジでアユミさんとのことを真剣に考えてますから」

 そう言った斉藤さんの目は赤く血走っていた。彼が言ったとおり、彼もそれなりに悩み、考えていたのかもしれなかった。

 それでも私はふっ、と皮肉るような笑みを浮かべた。

「斉藤さんはどうして暴走族に入ったんですか? というか、どうして他人を傷つけていたのですか?」

「俺は⋯⋯たぶん寂しかったんだと思います。誰かの愛情を求めていたんだと思います。だから仲間との絆を何よりも大事にしていましたし、絶対に裏切ってはいけないと思っていました。それでなかなかその環境から抜けられなかったのもあります」

「愛情──あとは「怒り」とかですか?」

「そうですね、それもあります。親のせいで自分がこんな目に遭うんだ、とか、なんで自分だけがこんな理不尽な思いをしなければいけないんだ、みたいな、そういう気持ちで暴れ回っていました。きっとぬくぬくと幸せに生きてる奴らが羨ましかったんでしょうね」

「なるほど」まあそうだろうな、という思いだった。

 私はがばっとベンチから立ち上がった。そして曇った空に眩しい目を向けた。

「私には、理由がないんです」

 目の前の噴水が音をたてて湧きあがった。

「自分が悪事を働いてしまうその動機が、これといって別にないんですよ。私の中にあるのは、ただいたずらに湧いてくる『衝動』だけなんです」

 掴んでいた小石を泉に向かって投げた。噴水が小さな虹を描き出していた。

「子供の頃からそうでした。物心ついたときには、私の中にはすでに黒いものが芽生えていました。抑えようとしたこともありましたが、自分の意志でどうにかなるものでもありませんでした。何をしたところで無駄なんです。いくら閉じ込めて鍵をかけても扉を破って這い出てくるんです」

 冷たい風が空気を切り裂き、肌がぴりりとひりついた。

「斉藤さんにとって〝抜け出す〟というのは、悪事から一切足を洗うことを意味するのでしょう。それを辞めたらきっと本来の自分の人生が始まるのでしょう。けれども、私にとっての〝それ〟は、私が私であるのを辞めることを意味するんです。自分を否定することになるんですよ。だってこれが、私なんですから」

 そう言って振り返ると、私は斉藤さんの顔をじっと見つめた。

「いや違いますよ。アユミさんは思いやりと正義の心をもった素晴らしい人です」

「違わないんですよ。やっぱりあなたは何もわかっていません」

 苛立った私はきっと相手を睨みつけた。

「たしかに斉藤さんの言う『私』も、私には違いありません。それも私という人間の持つ一つの側面ではあります。けれども、あの悪女のような一面も、私の中でたしかに『私』という人間を形成しているんですよ。あれも私、これも私です。それらすべてを含めて新垣アユミという一人の女なんです」

 斉藤さんは何か反論しようと身を乗り出したが、そのまま口をつぐんだ。

「人は自分以外の人間にはなれません。こんなのは自分ではない、こんな人間性は嫌だ、そうやっていくら自分を否定したところで、その人が有している生来からの気質というのは変えられません。これは私にとって与えられた宿命みたいなものなんですよ」

 自分の中の『私』をここまで誰かに説明するのは初めてだった。やはり私は期待を捨て切れていないのかもしれなかった。

「私は自分の宿命を受け入れています。もはやこれは、私が一生付き合っていかなければいけない、いわば持病みたいなものだと思っています」

 そのまままっすぐに相手の顔を見据え、私は問うた。

「斉藤さんは、こんな新垣アユミを受け入れられますか?」

 声が少し震えていた。皮膚の下で熱いものが蠢いていた。

「新垣アユミという女と関係を結ぶには、まず第一に私という人間を受け入れてもらわなければいけません。それがあなたにはできるんですか?」

「俺は⋯⋯。」

 斉藤さんは口ごもった。私はその表情にじっと目を凝らしていた。

 公園内にはサーっという噴水の音が響いていた。いつの間にか遊んでいた親子連れの姿もなくなっていた。

 しばらく考え込んだ斉藤さんが、おもむろに口を開いた。

「俺には難しいことはよくわかりません。だけど俺は思います。アユミさんはきっと、本気で人を好きになったことがないんじゃないですか?」

 そう言って彼は、あの率直な、とらわれのない目を私に向けた。

 私ははっとして大きく目を見開いた。驚くべきことにそれは、コトの核心をついていた。私はかつて、男性を好きになったことが一度もなかったのだ。

「誰かを心から好きになったことがないから、だから複数の男と恋の駆け引きをいたずらに繰り返してしまうんだと思います。一人の男のことを好きになったら、そんなことをしたいとはもう思わなくなるんじゃないですか?」

 その声はあくまで澄んでいて、無垢な響きをもっていた。透き通った川で無邪気に戯れる男の子の光景がまぶたに浮かんだ。

「俺がアユミさんを惚れさせてみせますよ。アユミさんの人間性を受け入れたうえで、アユミさんのその黒いものを俺が成仏させてみせます」

 そう言ってどんと胸を叩くと、斉藤さんは豪快に笑った。

 私は不思議な感覚にとらわれ、気がつくと、彼と一緒になって笑っていた。

 惚れさせてみせます、という台詞はこれまでに何度も耳にしていて、もはや私にとっては何ら特別な響きをもってはいなかった。それはむしろ軽くて陳腐な言葉に感じられてしまった。

 けれども私の中の悪女の存在を知ったうえで、それを受け止めようとした相手は初めてだった。そもそもその実態をさらした相手も彼が初めてだった。

「その言葉、信じていいんですね」

「ええ、もちろんです」

 この男の率直さに賭けてみてもいいのかもしれない。私は消えゆく噴水を見つめながら、そう考えていた。

 

 

 

 重たい扉を開けて私はなかを軽く見回した。どうやら相手はまだ到着していないようで、ひとまず安心した。

 いらっしゃいませと迎えられて「二名です」と指で示すと、いつものように最奥のテーブルへと案内された。店の入り口付近からも外の道路からも見えない、この喫茶店ではもっとも個室に近い、いわば特等席にあたるところだった。

 昔ながらの純喫茶は混雑することがなくていい。いまどき分煙されていないカフェに好んで訪れるのは馴染みの客か近所の老人が大半で、知り合いと顔を合わせる可能性はほとんどゼロに近い。タバコの匂いが髪や服に染みつくのは嫌だったけど、その煙幕が人を寄せつけないようにしているのだからそこはよしと考える。しかもその環境によって男の苛立ちが多少緩和されるのだからちょうどいい。自尊心を傷つけられた男の怒りをあまり増幅させるような真似はしない方が無難だった。

 この喫茶店は会社から三駅離れていて、しかも最寄りの駅からも十分以上歩いたところに立地している。毎回同じ用途で利用しているせいか、いつしか店のスタッフが気を利かせたように最奥の席へと案内してくれるようになった。それはサービス心なのか、店内の空気が重くなるのを回避するためなのか、真意はわからないものの気を回してくれるのがありがたくて、いつからかこの喫茶店ばかりを利用するようになっていた。まともに話したことのないマスターとも妙な顔見知りになっていた。

 あの日以来、私は、斉藤という男と交際を結んでいた。ずいぶん堅い言い方だけど、形ばかりのものではないので、他と区別するために私はそう呼んでいる。

 男と交際を結ぶのは高校のとき以来の試みだった。あの男がこの前言及したように私はこれまで一度も人を好きになったことがなかった。まるでその反応を司る神経が欠落しているかのように、私の心は、一人の男に対して特別な感情を抱くことがなかった。

 最後に結んだ交際のことは今では思い出したくもない。あれから同じ轍は踏まないと心に決めていたのだけど、私の内にも『私』をどうにかしたいという未練が残っていたようで、あの男の申し出に「よろしくお願いします」と私は答えていた。

 おそらくこれが『私』と決着をつける最後の機会だろうと思っている。年を重ねて女の魅力を失い、もはや男に相手にされなくなってからでは、きっと「真の恋」と「遊戯の恋」を秤にかけて見定めることはできなくなる。これは『私』との決別か、心中か、この先の人生を決める最後の恋愛になる、そんな予感が私にはしていた。

 だからというわけではなく、今年もシーズンが終了間近ということで、私は一つ一つの出会いを着実に終わらせていっていた。今年は私自身があまり乗り気ではなかったこともあって、その数も少なく、身辺整理は例年よりもわりと順調に進んでいた。

 ところが世の女に限らず『こじらせ男子』というのがいるもので、関係の断絶を容易に承諾してくれない相手が毎年何人かでてくる。いわゆる〝恋に恋している状態〟にある、妄想と現実の区別がつかなくなってしまった男だ。そういった面倒な相手と話をつけるときに私はこの喫茶店にくる。

 一生懸命な男というのは私の大好物だった。私をどうにか振り向かせようと、あの手この手で趣向を凝らしながら、己の情熱を必死にプレゼンテーションするひたむきな男。そうした男は真面目な人物である印象が強い。愚直なほどに真っ直ぐで、不器用なほどに正直で、駆け引きなしに真っ向勝負を挑んでくる。そういう男は相手にしていても気持ちがよかった。

 変にモテる男なんかの場合、フラれても大して傷つかないようにと、ほとんど冗談交じりに言い寄ってくる場合が多い。一般的にそれは〝重くならないように〟という女に対する気遣いであって、そういう振る舞いこそがスマートな男の口説き方のように見られているけれど、実際のところそれは、「失恋した」という明白な事実を突きつけられないように、半分逃げ腰になっているだけなのではないだろうか。いわば出口の扉に手をかけたまま女の家に侵入するようなもの。そんな中途半端な姿勢でうまくいくのは目先に肉体関係がある場合か、もしくは女の方も空白を埋めるためにとりあえず始めてみようというお試しな交際である場合がほとんどだろう。

 一生懸命な男は恥をかくことも傷つくことも恐れず、ド直球でこちらに向かって突っ込んでくる。その分、打ち返したときの衝撃は相当なものになり、察するに、男側が受けるダメージも並大抵ではなくなる。大の男が人目も憚らず声をあげて泣いたりするのだ。その様が私にはとても愛おしくてたまらなかった。情熱に溢れた男の活き活きとした顔が絶望的な陰鬱の色に染まっていく、その落差が、悪女たる私の脊髄をぞくぞくと慄わせる。

 ところが、一生懸命であるのと、しつこいのとは、ほとんど紙一重だった。

 私が遊戯の終了を明確に宣告した時は、その時はもはや相手にも潔く退いてもらいたかった。そこから先はお互いに失うものはあっても得るものは何もない。ただただ疲弊するばかりで、追いかける方も追いかけられる方も消耗し、最後には心身ともに憔悴しきってしまう。まさしくドロ沼の域に突入してしまうのだ。それはもはやゲームとは呼べない。私はそこまでの境地は求めていなかった。

 こじらせ男子は放っておくと何をしでかすかわからない。暴走した恋心は狂気となって男をおかしな方向へと向かわせる。ストーカー化する男などはまさしくその典型だった。

 私は、危険な匂いを感じた相手に限っては、関係断絶の折にきっちりと話をつけるようにしている。そうしないとあとでもっと面倒なことになることがわかっているからだ。

 今日もこれから一人の男と話をする予定でいる。そろそろ待ち合わせの時刻だった。

「電話でもお伝えしたように、私はもう田所さんとお会いするのはやめようと思っています。これ以上はご迷惑をかけるだけになってしまうと思うので」

 私は挨拶も早々に話題を切り出した。このての相手に無駄な世間話は必要ない。

「どうしてそうなってしまったんですか⋯⋯僕たちはまだ何も始まっていないじゃないですか」男は嘆くように言った。

 僕たち、という呼び方を男が使ったとき、その相手はこじらせ男子になっている可能性が高い。察するに、男の頭のなかでは私との関係がすでに成立されたものとなっているようで、すべての思考がその前提に立って展開されているみたいなのだ。その時点ですでに現実とのあいだに大きな乖離が生じている。

「僕は決して諦めませんよ。大丈夫です、アユミさんはきっと僕のことを好きになりますから。不安になるのはわかりますが、僕に一切身を預けて任せておいてくださいよ」

「⋯⋯。」

「そうだ、またあの星空を見に行きましょう。アユミさん、あのとき感じたトキメキをもう忘れてしまっているんじゃないですか? 無理もないですね、もうけっこう前の話ですから。そういえばあのとき、アユミさんは、これほどくっきりと夜空に浮かびあがった星々を見たことがないと言ってましたよね。なにせそれがずっと憧れだったんですもんね」

 よくそんなことまで覚えているな、と思うと同時に、それを君に見せてあげたのは自分だと値打ちをつけたいのか、と考えて私は苛立った。

「あのイタリアンにもすごく感動してたじゃないですか。あれもシェフに頼んで特別に用意してもらったコースだったんですよ。いや、僕は別に恩を売りたいわけじゃないんですよ。ただあのときのアユミさんの笑顔は間違いなく、これまでに出会った男とは違うようだぞと自身で物語っていたのですよ」男は自信たっぷりな顔で言った。

 別れの兆しを察した途端に男はケチになる。するとあれほど羽振りの良かった男らしさの影は消え失せ、やたらと計算に細かく渋ちんでうるさい経理のおばさんが顔を出す。たいがいはその前段階で相手の魅力は失墜しているわけだけれど、最期の時が近づくにつれてどんどんメッキが剥がれていき、ついにはその下にある女々しい素顔があらわになる。そうなったらいよいよこちらが相手にときめくことは無いわけで、それはまさしく自ら墓穴を掘っているようなものなのだ。だからこそみっともない恥をさらす前になぜ潔く退かないのか、と、私はいつもこうした相手に不快感を覚えずにはいられなかった。

「そう、僕は軽い男じゃありませんよ。アユミさんも言ってくれましたよね、僕が最初に誘った時のことを〝他の人と違って男らしかった〟って。そうですよ、僕は誰にでも声をかけるようないい加減な男ではありません。アユミさんだからこそこの機会を逃すまいとアタックしたわけで、この先もどんどん愛を育んでいこうと、こうして健気にアユミさんのもとに通っているわけです。それは真剣だからですよ? 他のどうでもいい女だったらここまではしていません。ま、言っても僕もそこまで女には不自由していないですからね、ははは」

 まったくベラベラとよく喋る男だ。ただのゲームに何をそんなにムキになっているのか。

「あっ、思い出した。アユミさん、もっと僕のことが知りたいと言ってましたよね。そっか、うっかりしてたなあ。すいません、僕そのことを忘れてて、毎回どこかへ連れ回すような真似ばかりしてましたね。あーしまった、それが悪かったんだ。今後はもっと僕の趣味とかプライベートな部分も見せていきますね。そうだ、友達にも紹介しなきゃいけませんね。あいつらマジで羨ましがるだろうなあ。こんな美人で献身的な女性が僕のお嫁さんになろうとしているだなんて知ったら」

 しつこい男の悪あがきには反吐が出る。この期に及んでさらなる醜態をさらし、小さな自尊心に鬱陶しいほどしがみついて、勘違いの痛々しさを惨めなまでに撒き散らす。生物としてあまりにも醜く、穢らわしい。ゴミ袋にまとめて回収業者に引き渡したい気分だった。

「いやー気づいてよかったよかった。アユミさん、じゃあ気を取り直して──」

「男として魅力を感じなかったんですよ」いつまでも話をやめない男の口を塞ぐように私は言った。

「⋯⋯えっ?」

「聞こえませんでしたか。あなたに男としての魅力を感じなかったんです」

 私は冷淡な口調で言い放った。

「残念です」テーブルのコーヒーカップを手に取ると、私は澄ました顔でそれをすすった。

 男はぽかんと口を開けていたが、次第にその顔に歪んだ笑みを浮かべた。

「な、何を言ってるんですか、アユミさん」

「何度か会ってみてそれがわかりました。だから今後も私があなたを好きになることはあり得ないんですよ」

 男は狼狽えた様子でスーツの内ポケットを手でまさぐった。そして取り出したタバコを口にくわえると、ぐらぐらと揺らめく炎を口元にもっていった。

「えっ、だって、アユミさんも僕のことを。というか、アユミさんから僕の方に──」

「最初はそうでした。すごく素敵な人だなあと思っていたんです。だけど会っていくうちにその熱が冷めていってしまったんです」

「なぜですか? 僕が何か、アユミさんを幻滅させるようなことをしましたか?」

「いいえ」

「だったらどうして⋯⋯」

 私は手にしたカップに視線を落とした。真っ黒な湖におだやかな波が立っている。それは天井の照明を受けてキラキラとゆらめいていた。

「私の勘違いだったんです。ごめんなさい」

 そう言うと、またじっくりと味わうようにコーヒーをすすった。窓の外をおばさんの乗ったスクーターが走っていった。

 男はしばらく唖然とした様子でタバコを咥えていた。しかし、そのうち眉間にしわを寄せ、怪訝な表情を浮かべた。

「勘違いって⋯⋯えっ、それってどういうことですか? ちょっと意味がよくわかりませんが」

 先ほどから続いていた男の貧乏ゆすりがにわかに激しさを増した。

「ですから、最初に感じていた気持ちが自分では熱情だと思っていたのですが、どうやらそういうことではなかったようだった、ということです」

 私はあくまで落ち着いた口調でそう言った。そうして鷹揚な態度で手にしたカップをソーサーに置いた。

 男の顔にふつふつと怒りの色が浮かんでいく。その変容はまるで、海の方に潮がさあっと引いていき、そのあとで憤怒を乗せた波が猛然と浜に押し寄せてくるみたいだった。

「はあ? なに言ってっか全然わかんねえよ。僕のことバカにしてるんすか?」

 早口でそう言うと、男はふう、とこちらに向かって煙を吐きつけた。前のめりになったその姿勢は攻撃体制に入った猪を連想させた。

「バカにするつもりなんて毛頭ありません。これはただ私の思い違いだったというだけの話なんです。ですから今回のことは心から申し訳なく思っています。ここまで振り回してしまって、ほんとうに、ごめんなさい」

 私はテーブルに向かって深々と頭を下げた。床の木目にパン屑が食い込んでいるのが目に入った。

「ごめんなさい、って⋯⋯。」

 男は鼻息を荒げたものの、あとに続く言葉を失ったようで、そのままむっつりと黙り込んでしまった。代わりに火のついたタバコを灰皿に乱暴に押しつけた。

 相手から勘違いだったと言われてしまったらもはやそれ以上返す言葉はないだろう。いわば〝誤報〟だったのだから、今さら何を言ったところで仕方がない。文句をつけても訂正はきかず、振り回された心と体の労もすべては徒労に終わるしかない。恋心の息吹のないところに実りの訪れはないのだから。

「ってことは僕は、ただひたすらに無駄な努力をさせられてたってことすか」

 男はもはや恫喝する態度を隠す気もないようだった。

「もっと早くに自分の気持ちの実態に気がついていればよかったのですが⋯⋯。」

「なんだよ、それ。あんた自身の気持ちだろ? なにを他人の心みたいに言ってんだ」

「⋯⋯。」

「チッ、まったくよ」

 男は再び取り出したタバコに火をつけた。そして溜め息をつくように深々と煙を吐いた。

 男はそのままそっぽを向いて何か考えるような様子を見せていたが、ふいに思い出したように、ぱっとこちらに顔を向けた。

「あんたさ、会社で知り合った男にこんなことばっかりやってんだろ?」

 憎しみのこもった冷たい目が、私の顔を睨んでいた。

「あんたとのことをさ、飯田商事の鈴木主任に話したらな、「あの女は絶対にやめておけ」って言われたんだよ。どうしてですか、って聞いても詳しいことは教えてくれなくて、「とにかく悪いことは言わないからやめとけ」って。あんたさ、こうやっていろんな男に思わせぶりなこと言って相手をたぶらかしてんだろ?」

 私は黙ったままじっと奥の壁を見つめていた。森林を写生した安っぽい風景画が架かっていた。

「真剣に恋愛しようとしてる男騙してよ。そんなことして面白えのかよ? マジで気持ち悪りい女だな、お前」

「言っとくけどな、こっちだって大して本気じゃなかったんだよ。別にお前以外にも遊んでる女はいくらでもいるし。つーかよ、お前クラスの女なんてよ、そこら中に吐いて捨てるほどいるんだよ。受付に座ってるだけのただの会社のお飾りがいい女ぶってよ、やたらとお高くとまりやがって」

「おい、なんとか言えよ。反論しねえってのは要するに認めたってことか。澄ました顔しやがってよ、クソが」

 男はテーブルの足をがつんと蹴った。ガチャン、と食器がかち合うやかましい音が店内に響いた。

「性悪女が。お前なんかな、どっか連れ込まれて犯られちまえばいいだよ!」

 吐き捨てるように言うと、男は鞄を掴んで足早に店を出ていった。ありがとうございました、という店員の小さな声が虚しく響いた。

 私は残ったコーヒーを一気にすすり、ふう、と大きく息を吐いた。

 ──これでいい。

 私のことを大嫌いになった状態で相手との縁を切る。こうすれば以後、つきまとわれたり、追いかけ回されたりすることはなくなる。とにかく男を洗脳状態から醒ましておくことが重要だった。

 私は手を挙げて店員を呼んだ。そして償いの意味もこめて「ナポリタンとチョコレートパフェ」と言うと、「あ、あとコーヒーもおかわりで」と満面の笑みを振りまいた。

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